ダルフールの通訳 ジェノサイドの目撃者
描かれている内容は壮絶で悲惨なものだ。一つ一つ、それらを思い描くと、二度と忘れらない。想像できないような状況で家族が殺されるのを見て、そして絶望して殺されていった人々がいた。このような事実を多くの人に知ってほしいが、映像としては伝えられない。映画にも出来ないだろう。
著者ダウドの記述は、生死をさまよう中で、砂漠の様子やらくだのこと、ユーモアというか、その場の緊張感を和らげる記述がある。なんともいえない。彼のある種の陽気な性格のために、どのような場面でも生き残ったのだろうかとさえ思う。
少し不思議に思ったのは、彼らの行方を詳細に把握している政府軍や武装勢力の情報収集能力だ。お互いの勢力分布を把握しているのか、砂漠でダウドを殺そうとする際でも責任を取らないでいい方法や場所を気にする。伝統的な通信手段だけでなく衛星電話をつかっているのだろう。紛争当事者に物を売って利益を上げている組織があるのだろう。
ここ日本で、スーダンのために我々にできることはなんだろうか。
毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記
この人の不可解さが増してくる傍聴記でした。
といっても、この本がわかりにくい、
という意味ではまったくありません。
むしろ、軽いタッチながら非常にわかりやすい。
すらすら読めます。
それだけに、木嶋という人の、人間そのものが
まったく理解できない感にどんどん襲われています。
ぶすとかどうとかじゃないです。
相手の人たちがどうとかでもないです。
一体に、人が人を騙すことはよく見られることだし、
男の結婚詐欺も珍しくないですし、連続殺人も
ありますが、この人がお金をはぎ取って、それでも
被害者たちがこの人の求める「支援」に応じ、
そして、どうして次々に練炭で殺さないと
いけなかったのか。
これだけのことをするのには何らかのコンプレックスに
よる動機とか、宗教的信条とか、何かそういう
「(少なくとも理論的に)理解」可能なものが
あって、凡人はある意味でも安心できるのだと
思うのですが、この人の傍聴記での様子、発言を
見ましても、まったくそれら”安心できる”理由が
どこにも見つからない。
洞穴のような目、と傍聴記に書いておられますが
そうなんだろうな、と思いました。
そういう点で非常に恐ろしく、人間的に強い関心を
招き、文豪に小説化してもらいたいと思う人物である
ことを軽いタッチで知らせてくれる本でした。
敗れざる者たち (文春文庫)
敗れるためには誰かにあるいは何かに倒されなければならない。彼は一体何に倒されたのか。さらに重要なことは、敗れる為にはそこにその場に立たなければならない、恐怖と孤独のただ中に、運命を決する場に。彼はどうやってその場にたどりついたのか。あるいはたどりつけなかったのか。一生「その場」に立たないであろう大多数の男達の一人として沢木耕太郎はその何故、いかにしてを見届けようとしている。
「長距離走者の遺書」のなかでの円谷幸吉と斉藤勲司との「牧歌時代」が、おそらく全ての敗者の出発点なのだ。栄光のためでもなく金のためでもない。ただ走るのが楽しいから走っていた。走り続けた。ところがいつの間にかそれが変質してしまう。「何か」を得るために走るようになってしまう。「何か」のために走らされるようになってしまう。その極点において敗者は2つに分かれる。運命に選ばれてしまった者と運命を選び取った者とにだ。足を故障しても走り続けたアベベ、引退後もハードトレーニングをし続けた榎本喜八。かれらは結局老成しなかった者と言い換えることもできる。それは世間的にみれば敗者なのだ。だがそれは本当に敗者なのか?「あしたのジョー」に憧れた無数の若者達とともに沢木耕太郎は自らにそう問いかけている。
キネマ・イン・ザ・ホール
「底知れぬ闇の淵に潜んでいる一番怖いものとはなあに?」
と始まる、“穴”をテーマにしたアルバム。
一人の男が壁に空いた穴を見つけた。その穴を抜けて向こう側に出るとそこは……
愛する男に銃口の穴を向ける曲。愛した妻を殺して埋める男の曲。縦穴に落ちて何日もすぎた兄妹のうち、空腹に耐えかねた妹が兄を喰い殺す曲。
アルバム全体で見ると地味な曲だがよく聴くと癒しメロと鬱歌詞のコントラストが印象的な'F“舞い降りた天使”。
シークレット・トラックで、カラカラ回る映写機の音をバックに延々と続く、烈火さんのケタケタ狂おしい笑い声が大好きです。
この笑い声の主は、こうして悪意を集めて糧にしているのだなあと思ってみたり。