彷徨の季節の中で (中公文庫)
東京大空襲によって燃え盛る麻布の屋敷を指差し、父が叫ぶ。「お前達!避難民は一人も入れるな!土地を取られてしまうぞ!土地だけは絶対に渡してはならん!」
一昨年、西武グループと堤一族を「暴いた」マスコミがこぞって引用したこの一節は、辻井喬(堤清二氏)によるこの自伝的小説からでした。
事業的にも性的にも(!)強欲な、尊敬できぬ父。妾として自分を育てた母すら、養母ではないかという疑惑。永遠の父探し、母探し、異母兄弟との諍いはナイーブな彼を自己否定に駆り立て、マルクス主義による自己改造と、ブルジョア家族との断絶にまで追い込みます(血族を否定する為に彼に残された論理は「労働者の敵ブルジョアだから」でしかなかった哀しみ!)。しかしそうしてもなお、革命組織と思想にすら彼は裏切られ、また一人の人間として普通の生活の世界に戻っていくのです。
「生い立ちについて、私が受けた侮蔑は、人間が生きながら味わわなければならない辛さの一つかもしれない」という暗示的な文章で始まるこの小説を、単に複雑な家庭環境にもがき苦しむ人間の特殊な自伝として読むのも、とある思想や物語への人間の帰依願望として読むのも、いささかもったいない。
自分の中の消したい記憶や家族との葛藤は形こそ違えども、皆あるのではないか。それをこれほどまでにドラマチックに描けた事は稀有です。絶版しているのが勿体ない小説。
父の肖像〈下〉 (新潮文庫)
「問題は登場する人物がどれくらい肉体を持った存在として客観的に描かれているか」。
主人公・恭次が妹の小説を判定するに際して持ち出したこの基準に従って本書を
判定するならば、およそ失格もいいところである。しかし、あえてそのタブーを意図的に
侵犯するがゆえにこそ、この小説は感動的なものとなる。
本書において、恭次は戸籍上の母とも育ての母とも異なる産みの母を持ち、しかし彼は
その影をおぼろに知るばかり。仏門に入った才気溢れる歌人であり、さらに彼女の母は
父・次郎にとってのいわばファム・ファタール――であるらしい。
こうして「共生不可能な男女の間に生れたのかもしれない」由来定かならぬ恭次は、
「私は私だという事実だけが頼れる現実なのだと思えば思うほど、その自分が不確かな
存在に思えてくる」。下巻においてはいわば恭次の「自分探し」が図られる。
いみじくも彼は告白する、「父の伝記を書く作業が一面で若い頃の自分の姿を映し出す
ようになる事に途中から気が付いた」と。母が「肉体を持」たぬ「不確かな存在」なればこそ、
いっそう「私」は「父」へと向かわざるを得ない。「私」なる人格を引き受け、この「伝記」の
書き手を演じる恭次は、「確かな存在」とも見える父の内面に時に深く潜り込むことによって、
明白にその境界を見失う。「父の肖像」を模索することは「私」を確かめることであり、同時に
父をも「不確かな存在」にすること、「客観」の垣根を束の間消すこと、「不確か」な両者の
部分的和解をもたらすものとなる。
こうして恭次‐次郎の関係を描き出すことで、辻井(堤清二と呼ぶべきか)もまた父への
融和の匂いを漂わせ、しかし同時に突き放す(本書の結びは全き赦しを与えたと読むには
あまりに厳しいものである、たとえそこに三島由紀夫『絹と明察』を思わせるような、前近代的
家父長制の終焉と近代型家族制度に対する次郎の不適合が意識されているのだとしても。
奇しくもその小説の舞台は琵琶湖畔、次郎もその郷里を滋賀に持つ)。その限りで、本書は
私小説でありつつも、私小説を越える。恭次なる「私」を描き恭次を越えて、辻井なる「私」が
書いて辻井を越える。「私」を越えて、父‐子なる磁場の愛憎と葛藤を強烈に映し出す。
次郎が一貫してアンビバレントな存在として描かれるように、彼への恭次の感情もまた、
極めて両極端な相を持つ。常ならぬその振れ幅ゆえにこそ、思いが生々しく刺さる。
終りなき祝祭
~この作家が誰であるかということは、知っている人は知っているし、少し調べれば誰でも知りうる。
彼は実父の「どうしようもなさ」に悩んだのであろう。それは他の作品にも度々描かれる家庭を顧みない「父親像」に現れている。
その「どうしようもなさ」への尽きぬ思い、そしてもしかしたら自分も(そして兄弟も)父に似てしまったかのではないか?との疑~~念が彼の頭を離れることはなかった、ように思う。
開き直ってしまえば気にしなくても良いのかもしれない「どうしようもなさ」を抱えながら生きていく術として彼が選んだ「書くこと」。
形を変え、時代を変え、関係を変えながらも、彼の作品に通底するのは「どうしようもなさ」。これは「やるせなさ」であるのかもしれない。
矛盾を抱え、モラルを問い~~ながらも、「生きていくしかない」と言うこと。それが彼にとっては「終わり無き祝祭」であるのだろう。~
茜色の空
政治小説でありながら大平首相の人柄を反映してか政治色が薄い。登場人物も田中角栄を元とする政治家より記者や学者の出番が多い気がする。
書く登場人物の内面に切り込んだ描写が非常に多いことが本小説の特徴だが、多分に著者の想像に依拠している。特に岸信介、佐藤栄作兄弟などは完全に悪役にしか見えない。
そういった欠点はあるが大平が目指した理想の社会をおぼろげながらでも描いているのは小説ならではだ。タイムリーな話題である沖縄密約や経済至上主義からの脱却は確かに大平が大きな関心を寄せていた課題であった。
あくまで小説と割り切って読めば大平首相の人柄はよく表現できていると思う。
叙情と闘争―辻井喬+堤清二回顧録
文学者で経営者。しかも、西武!
なので、叙情と闘争。
ミシマ、アイゼンハワー、キシ、マッカーサー、シュウオンライ。
山川の歴史の教科書に、太字で出てくる人たちです。
そんな、ヤバイ人たちとの交流。
面白く読みました。