新日本プロレスリング 最強外国人シリーズ 大巨人伝説アンドレ・ザ・ジャイアント DVD-BOX
堪能致しました。コメンタリーは新間さん、評論家の菊池さん、坂口さんの三名でした 。 ジャイアントはベールに包まれた部分が多いので、ハンセンやブロディのDVDの様に、本人や家族のコメントでは無いから やや物足りなく感じましたが。 入場テーマ、ジャイアントプレスで堂々と入ってくる姿は今のレスラーには無いですオーラを感じました。 個人的には星野勘太郎とのやり取りが一番印象的でした。 ブックレットはアンドレ・ザ・ジャイアントの実績年表…と言った代物でしたね。 貴重なパンフと写真が満載の作りです。 全試合データを期待したのですが、売れっ子でしたからフォローは難しいのでしょうか 。 古舘アナのジャイアントに対する実況も素晴らしかった(笑)。
眼には眼を [DVD]
町山智浩氏の「トラウマ映画館」でこの作品の存在を知り、DVDで購入。
ストーリーはシリアの小都市に勤務するフランス人医師、ヴァルテルが身重の妻の診察を求め、自宅にやってきたある夫妻診察を断り、病院へ行くように使用人を通じて伝えるところから始まる。翌日、ヴァルテルは宿直医の診断ミスにより昨夜の婦人が死亡したことを知る。
それ以来、ヴァルテルには夫妻が乗っていた自動車を目にしたり、尾行されたりと奇妙な出来事が起こるようになる。
妻を失った男、ボルタクの仕業と知ったヴァルテルは、ボルタクを追って訪れた村で病気の長老を診察しようとするが、村人たちの拒否に会い、自動車も壊され、ボルタクとともに砂漠を抜けて、ダマスカスまで向かうことになる・・・
冒頭から漂う不吉なムード、誤診した宿直医の科白、不条理なボルタクの行動と価値観・・・映画が娯楽にとどまらず、人間や実存というテーマを描くことが可能な表現だと改めて知ることができました。
ストーリーはシリアの小都市に勤務するフランス人医師、ヴァルテルが身重の妻の診察を求め、自宅にやってきたある夫妻診察を断り、病院へ行くように使用人を通じて伝えるところから始まる。翌日、ヴァルテルは宿直医の診断ミスにより昨夜の婦人が死亡したことを知る。
それ以来、ヴァルテルには夫妻が乗っていた自動車を目にしたり、尾行されたりと奇妙な出来事が起こるようになる。
妻を失った男、ボルタクの仕業と知ったヴァルテルは、ボルタクを追って訪れた村で病気の長老を診察しようとするが、村人たちの拒否に会い、自動車も壊され、ボルタクとともに砂漠を抜けて、ダマスカスまで向かうことになる・・・
冒頭から漂う不吉なムード、誤診した宿直医の科白、不条理なボルタクの行動と価値観・・・映画が娯楽にとどまらず、人間や実存というテーマを描くことが可能な表現だと改めて知ることができました。
アンドレ バレンチノ 自動開閉ミニ傘 ベージュ
こういう自動開閉の折りたたみ傘はセ◯ンイレブンで売っていたもので知り、使っていたのですが、色が赤黒青と単純なのが不満で、Amazonで眺めた中で、値段(1500円台だった)も考慮し本製品を選びました。
機構は同じなので、縮めるのに力がいるのは共通の仕様です。
セ◯ンの製品はついているストラップがエラストマー素材で、変に跳ねたりして邪魔なのですが、本製品は編み紐で悪くないと思います。持ち手の処理はセ◯ンのもののほうが上品だと思います。
あと、本製品はセ◯ンのものより若干丈が長いです。3cmくらいかな?
個人的には、折りたたみ傘は自動開閉なほうが傘の生地が型崩れしにくく、簡単にまとめられるので好きです。
届いてほどなく雨の日が多くなったので、かばんに入れておくと自然に出番が増えているのですが、今のところとくに不具合無く使えています。
機構は同じなので、縮めるのに力がいるのは共通の仕様です。
セ◯ンの製品はついているストラップがエラストマー素材で、変に跳ねたりして邪魔なのですが、本製品は編み紐で悪くないと思います。持ち手の処理はセ◯ンのもののほうが上品だと思います。
あと、本製品はセ◯ンのものより若干丈が長いです。3cmくらいかな?
個人的には、折りたたみ傘は自動開閉なほうが傘の生地が型崩れしにくく、簡単にまとめられるので好きです。
届いてほどなく雨の日が多くなったので、かばんに入れておくと自然に出番が増えているのですが、今のところとくに不具合無く使えています。
シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)
いま日本の若者が「シュールな発想だなぁ」とか言うときの「シュール」は、「シュルレアリスム」(超現実主義)を略したものである。この、20世紀はじめの芸術運動である「シュルレアリスム」とは何なのかが知りたければ、ネットで調べた後にとりあえず本書を読んでみればいい。
「シュルレアリスム宣言」の内容は非常に簡単で、著者ブルトンの言いたいこと、やりたいことが全く理解できないという人は稀だろう。分量的にも薄い本なので、読むことを止めはしない。……しかし、趣旨にはあまり賛成できないというか、個人的にはあまりここから学ぶべきことはないように思う。
「シュルレアリスム宣言」は、80年ぐらい前のヨーロッパ文学界を批評している文章なのだが、これはもともと「溶ける魚」の序文として書かれたものらしい。「溶ける魚」というのは、ブルトンが「シュルレアリスム」を実践して書いた短編小説のような散文詩のようなものを、32点まとめた作品集である。
この「溶ける魚」は「自動記述」という方法で書かれている。「自動記述」というのはじつに子供じみた遊びのようなもので、まず筆記用具を用意していったん頭の中を空っぽにし、意識の上では何も考えずに、自ずから心に浮かび上がってくる言葉を、反省が追いつかないような速さでひたすら書き留めていくのである。紙に字を書きまくっているあいだ、何も考えてはいけない。これによって、「夢」のような「不可思議」なイメージが生まれるというわけだ。
この「不可思議」を礼賛すること、それが「シュルレアリスム」の全てである。「きっぱりいいきろう、不可思議はつねに美しい、どのような不可思議も美しい、それどころか不可思議のほかに美しいものはない」(p.26)ということだ。「高度な気ままさを示している……実用的な言語に翻訳するのにもっとも時間のかかるイメージ」(p.68)が生み出されればそれで良いのであって、まとまりを持った意味や物語は必要ないらしい。「リアリティ(現実性)」などもってのほかだ。
「溶ける魚」のなかのいくつかの作品を読んでみると──とても全部読む気にはならない──、たしかに不可思議で妖艶なイメージが喚起されるといえばされる。しかし、ふつうの人間なら、やはり「意味」や「現実性」をまったく伴わないイメージになど強く惹かれることはないのではないか。
ダリの絵画にしてもそうなのだが、一瞬ネタとして面白そうに思えるものの、冷静に考えてみると、こんなものを有り難がっていられるのは、よほど強力な「現実主義(リアリズム)」の軛に縛られた境遇にある場合か、せいぜい少年時代の気まぐれの中でだけなんじゃないかと思う。
ブルトン自身が、「『真の人生』にいちばん近いものは、たぶん幼年時代である」(p.72)と言っている。そう、要するに「シュルレアリスム」というのは子供の遊びなのである。子供の遊びが面白いことは大いに認めるが、それを芸術上の「主義」として「宣言」するというのは、大人がすべきことなんだろうかという疑念は残る。
文庫本の表紙に「『シュルレアリスム宣言』こそは20世紀の芸術・思想の出発点である」とあるが……そんな大層なものだろうか?
……さて、いま試みに私も精神を統一して「自動記述」を実践してみたら、以下のようなシュールな作品が生み出された。不可思議はつねに美しい!
「いっさいの読み流される子供たちよ。私たちは泳ぐのだ、足をまげて泳ぐのである。生粋の神社は五穀のはたらきで、水の中へ飛び込んでいき、目の前の現実にくさびを打ちこむのである。しかし我々は生きながらえて、子供たちのところへありがとうと言わないで、どこまでもどこまでも歩いていくのである。ちなみに今日から50歳の誕生日を迎えて死んでしまう人たちを、私は恐ろしく寝かせていたいのだが、しかし忘れられた人々のことを考えれば、私は宇宙へも行きたくなる。」(一回目)
「おお、我々の愛の力を投げかける大王の里へ、ようこそみなさん。我々がいちばん信じている私たちの神よ、信じてくれ。さとし君、君へようこそ。桜の木の眠りのなかで、私は信じていくのか、君はなにをしているのか、我々が現実に属することを知っているわけではなかろうに、しかし自分で死んでしまった男たちよ。自らの軽率さに吐き気がしないか? 僕は言うぜ、まったく碌でなしのおもちゃと博士をきらびやかに抱いて、碌でもないところへ抱いていくのである。しかし我々よ、神のお供よ、昔から我々の頭には、一切の気付きがあったのではないか? さっそく前へ出てみよう。すぐれた我々は、しんどいかもしれないが、行くのである。すがさん。」(二回目)
──すがさんって誰だよ(笑)。さとしという知り合いなら居るが。
「シュルレアリスム宣言」の内容は非常に簡単で、著者ブルトンの言いたいこと、やりたいことが全く理解できないという人は稀だろう。分量的にも薄い本なので、読むことを止めはしない。……しかし、趣旨にはあまり賛成できないというか、個人的にはあまりここから学ぶべきことはないように思う。
「シュルレアリスム宣言」は、80年ぐらい前のヨーロッパ文学界を批評している文章なのだが、これはもともと「溶ける魚」の序文として書かれたものらしい。「溶ける魚」というのは、ブルトンが「シュルレアリスム」を実践して書いた短編小説のような散文詩のようなものを、32点まとめた作品集である。
この「溶ける魚」は「自動記述」という方法で書かれている。「自動記述」というのはじつに子供じみた遊びのようなもので、まず筆記用具を用意していったん頭の中を空っぽにし、意識の上では何も考えずに、自ずから心に浮かび上がってくる言葉を、反省が追いつかないような速さでひたすら書き留めていくのである。紙に字を書きまくっているあいだ、何も考えてはいけない。これによって、「夢」のような「不可思議」なイメージが生まれるというわけだ。
この「不可思議」を礼賛すること、それが「シュルレアリスム」の全てである。「きっぱりいいきろう、不可思議はつねに美しい、どのような不可思議も美しい、それどころか不可思議のほかに美しいものはない」(p.26)ということだ。「高度な気ままさを示している……実用的な言語に翻訳するのにもっとも時間のかかるイメージ」(p.68)が生み出されればそれで良いのであって、まとまりを持った意味や物語は必要ないらしい。「リアリティ(現実性)」などもってのほかだ。
「溶ける魚」のなかのいくつかの作品を読んでみると──とても全部読む気にはならない──、たしかに不可思議で妖艶なイメージが喚起されるといえばされる。しかし、ふつうの人間なら、やはり「意味」や「現実性」をまったく伴わないイメージになど強く惹かれることはないのではないか。
ダリの絵画にしてもそうなのだが、一瞬ネタとして面白そうに思えるものの、冷静に考えてみると、こんなものを有り難がっていられるのは、よほど強力な「現実主義(リアリズム)」の軛に縛られた境遇にある場合か、せいぜい少年時代の気まぐれの中でだけなんじゃないかと思う。
ブルトン自身が、「『真の人生』にいちばん近いものは、たぶん幼年時代である」(p.72)と言っている。そう、要するに「シュルレアリスム」というのは子供の遊びなのである。子供の遊びが面白いことは大いに認めるが、それを芸術上の「主義」として「宣言」するというのは、大人がすべきことなんだろうかという疑念は残る。
文庫本の表紙に「『シュルレアリスム宣言』こそは20世紀の芸術・思想の出発点である」とあるが……そんな大層なものだろうか?
……さて、いま試みに私も精神を統一して「自動記述」を実践してみたら、以下のようなシュールな作品が生み出された。不可思議はつねに美しい!
「いっさいの読み流される子供たちよ。私たちは泳ぐのだ、足をまげて泳ぐのである。生粋の神社は五穀のはたらきで、水の中へ飛び込んでいき、目の前の現実にくさびを打ちこむのである。しかし我々は生きながらえて、子供たちのところへありがとうと言わないで、どこまでもどこまでも歩いていくのである。ちなみに今日から50歳の誕生日を迎えて死んでしまう人たちを、私は恐ろしく寝かせていたいのだが、しかし忘れられた人々のことを考えれば、私は宇宙へも行きたくなる。」(一回目)
「おお、我々の愛の力を投げかける大王の里へ、ようこそみなさん。我々がいちばん信じている私たちの神よ、信じてくれ。さとし君、君へようこそ。桜の木の眠りのなかで、私は信じていくのか、君はなにをしているのか、我々が現実に属することを知っているわけではなかろうに、しかし自分で死んでしまった男たちよ。自らの軽率さに吐き気がしないか? 僕は言うぜ、まったく碌でなしのおもちゃと博士をきらびやかに抱いて、碌でもないところへ抱いていくのである。しかし我々よ、神のお供よ、昔から我々の頭には、一切の気付きがあったのではないか? さっそく前へ出てみよう。すぐれた我々は、しんどいかもしれないが、行くのである。すがさん。」(二回目)
──すがさんって誰だよ(笑)。さとしという知り合いなら居るが。