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梱包はもとより、ポスターやカードも新品で封入されていました。
良い買い物をしたと思っております。

昭和ノスタルジアとは何か
 人間とは、とかく過去をなつかしがる生き物で、へたをするとそこらの女子高生ですら「昔はよかったなあ」などと真剣な面持ちで呟いたりする。それは当然といえば当然で、「自我」というものは悔恨の上に成立するものだからだ。生きていくということは、生まれたばかりのころは全能だった自分の限界を知ることであり、自分の限界を思い知らされる喪失と悔恨の境界線が自我の境界線を規定していく。自分というのはそんな自分史(構造化された自分の経験、あるいはそう思い込んでいるものの総体)の別名である。
 個人のレベルでは、縁側なんかで目を細めながら「昔はよかったなあ」と思っていれば、ナルシシズムが慰撫されて、それはそれで精神衛生上非常によろしいのだが、ときおり個人ではなく社会的なレベルで懐古の感情が、ある過去の時代を指向することがある。21世紀に入ってからの日本でブームとなった「昭和ノスタルジア」はそのひとつだろう。特に昭和30年代から40年代にかけての日本経済の高度成長期前後へのノスタルジア。路地裏の駄菓子屋、夕方の豆腐売りの喇叭、チンチン電車の走る大通り、白い開襟シャツに透けたランニングシャツ、建設中の東京タワー木造の看板建築、大阪万博の太陽の塔、蚊取り線香の匂い、デパートの最上階の大食堂などなど、数え上げればきりがないが、しかし、きわめてステレオタイプなそんな時代のイメージが、「貧しかったが希望があった」「人情にあふれていた」などという言説と幾重にも重なって、「あのころはよかったなあ」という感情が社会的に共有されていくのをぼくたちは目の当たりにしてきた。
 著者の日高勝之氏はぼくとほぼ同年代の生まれで、そんな昭和の時代に子ども時代を過ごした。しかし、日高氏は、この本を書いた動機のひとつは、その昭和へのノスタルジアに強い違和感を感じていたからだと言う。実はぼくもそうで、それはもちろん個人的な感慨としてあのころをなつかしいと思わなくはないけど(人間は過去をなつかしがる唯一の動物だからね)、あのころを全き肯定の対象とみる昨今の風潮はいかがなものかとかねがね思っていたのだ。

 個人レベルと社会レベルでの懐古における最大の相違点のひとつは、原初の全能の記憶の有無にある。だから、個人における懐古の感情は、本質的に何かを喪失していく過程における悔恨に彩られているが、社会が過去を指向するノスタルジアは、過去の時代が直面していた矛盾や問題点から優位に立った(過去の時点の矛盾や問題点の多くは、現在においては既に解決あるいは決着されているからだ。たとえば、昭和30〜40年代でいえば「貧しさ」の問題がそうである。今の日本は翳りが出てきているとはいえ、あのころに比べれば圧倒的に豊かだ)、まるで忠実な仔を見るような、権力的な眼差しに支えられている。だから、それは昭和に限ったことではないが、特に政治家が過去の時代を指して「あのころはよかった」と語るのはきわめて危険な兆候である(この本でも、安倍晋三と野田佳彦の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の絶賛ぶりについて触れられている)。それはつまり、国民とともに時代を創っていこうという意思ではなく、国民は忠実な仔であってほしいという彼らの欲望の裏返しにほかならないからだ。
 もちろん、その視線は政治家だけのものではない。ぼくたちが映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を観て、その登場人物たちの「ケナゲさ」のようなものに涙を流したとすれば、その権力的な欲望はぼくたちの内部にもあるということなのである。この本を読むまで、ぼくは世間に蔓延する昭和ノスタルジアという風潮について、そんなふうに(かなり否定的に)ぼんやりと考えていた。

 この本は、社会レベルの懐古を個人レベルのそれから決定的に峻別させるもうひとつの相違点、すなわち、文化的表象や言説によるノスタルジアの神話作用について分析している。それはつまり、歴史あるいは物語がいかに生成されていくかという過程の分析である。社会的な記憶は、表象や言説の流通と複製を通じて、常に何らかの変形を受けながら「神話」として固定化されていく。
 その謎を解くために、題材として日高氏が取り上げたのは主に下記の映像作品だ。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』『フラガール』『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』『20世紀少年』、そしてテレビ番組『プロジェクトX』。日高氏はこれらの作品がもたらすさまざまな意味作用に対して、イギリスのポスト・マルクス主義政治学者であるエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフによって構築された言説理論の諸概念を武器に切り込んでいく。
 その表象分析の方法論の解説は本書の第2章に詳しいが、ごくごく簡単に言うとこういうことだ。テクストにおけるさまざまな表象や言説は意識的/無意識的に、あるいは偶然や誤読によっても、有機的・重層的に結びつき(「節合」)、ある種のアイデンティティを持った像あるいは言説を暫定的に前景化させる(「ヘゲモニー」)が、そのヘゲモニー自体はそれと敵対する「何か」との意味闘争によってその輪郭を規定(「敵対性」)されており、その「敵対性」を分析することによって、不可視の「何か」、およびその闘争の構図(政治性)が可視化されることになる。大事なことは、テクストにおける意味の闘争、節合の重層性、ヘゲモニーの暫定性に目を向けることによって、物語生成のダイナミズムを動的なまま捉えようとしているということだ。だから、この方法は、「今/ここで」生成されているノスタルジアの分析にあたってはきわめて有効な力を発揮することになる(このレビューの本筋とはあまり関係のない、本書の方法論について述べたのには理由がある。それについては後で述べる)。

 たとえば東京タワーのイメージだ。上記の作品の中では常に近くにありながら、たどり着けない場所として東京タワーが描かれたのはなぜか。
 どうして『ALWAYS 三丁目の夕日』の東京タワーは未完成なのだろう(完成した姿をあらわすのはラストシーンの数秒間だけだ)。どうして『ALWAYS 続・三丁目の夕日』では、完成した東京タワーに、一平少年はエンディングまで連れて行ってもらえないのだろう。どうして『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』のオカン・栄子は東京タワーが見える病室に入院していながら、一度もそこに昇ることなく死んでいかなければならなかったのだろう。実はこれらの問いの中には、「昭和ノスタルジア」の生成をめぐる重要なヒントが隠されているのだが、その答えをここに書くことはぼくの本意ではない。答えはこの本の中に、先に書いた方法を用いた分析と的確な考証とともに記されている。そしてこの本の中には、このような目ウロコの記載が山ほど詰まっているのである。

 当然のことながら、どんな時代であっても、そこには固有の矛盾や問題が存在している。全ての人が幸福であるような社会は、過去にも存在しなかったし、おそらく未来永劫そんなユートピアは存在しないだろう(もちろん、だから、そんな社会を目指す努力をしなくてもいいんだということではない)。
 「昭和ノスタルジア」という現象も、「明日は今日よりもよくなる」という神話が崩壊した21世紀のぼくたちの、経済成長という希望の日々であった昭和30〜40年代に対する羨望のあらわれだというのも大雑把にいえば正しいし、この現象について言及した言説の多くも概ねそんな結論でまとめられている。だが、ノスタルジアという社会的な心的態度は、過去の時代を羨望するあまり、その時代固有の矛盾や問題を縫合すると同時に、今ここにある矛盾や問題の解決からの脇道化という、いわば二重の欺瞞を含んでおり(政治家が過去の時代を指して「あのころはよかった」と言うことがいかに危険であるかはこれでもわかる)、それはある種の社会の病理以外のなにものでもない。
 大事なことは、ノスタルジアが隠蔽する二重の欺瞞を暴き立て、ノスタルジアという現象の敵対性を形成する「今ここにある」矛盾と問題を具体的に解決する社会的実践をぼくたちの手に取り戻すことだ。そして、この本の最もステキなところは、そのための道筋、あるいはその可能性をもきちんと示唆してくれていることである。
 本書の終盤で、日高氏はこう書いている。「無数にありうる人間の相互関係のネットワーク、そしてメディア、言説空間で他者が発した言語、ナラティブに言及すること自体が他者と自己との節合の契機であり、複数的アイデンティティの発見と創造への重要な回路たりうるのである。他者との節合を繰り返すことによる複数的なアイデンティティの何がしかの発見は、コスモポリタン的な立場と親和性が高いと共に、しかしながら同時に、そのプロセスそのものが忘却、無関心、非想像、非寛容などとの敵対性ともなりうる。節合そのものが新たな関係性を生み出すツールであり、また、時間的猶予のある中で節合およびそれによる敵対性のありようそのものが淘汰され洗練されうることもいくぶん期待されるのである」。これ自体は極限まで抽象化された記述だが、本書をここまで読み進めてくれば、これらの言葉が生き生きとした実感をともなって、自分の前に立ち現われてくるのがわかるはずだ。ここだけの話だけれど、ぼくはこの文章にたどり着いた時、涙が止まらなくなった。本書の500ページ余にも及ぶ論考は、実はこのパラグラフのために存在していると言っても決して過言ではない。
 ぼくが先に本書の表象分析の方法について詳しく触れたのも、ここに理由がある。ノスタルジアが隠蔽するものを暴き、過去ではなく未来につながる社会的実践を取り戻すためには、複雑に絡み合い、縺れ合った諸表象の節合を読み解かねばならない(数本の映画などを読み解くために本書が500ページを必要としたのは、その複雑さのひとつの証左である)。そのために先の方法論が有効なのは当然だが、問題はそれだけではない。日高氏が先の引用で示唆するものは、もうひとつの「節合」の可能性である。簡単に言えば、物語の病には、もうひとつの物語で対抗するしか手はないということだ。そこには、人間を動かすものはあくまでも物語でしかないという透徹した認識がある。
 ひとは物語なしでは生きていくことはできない。物語を持たなければ、世界は無表情で無機質な高い壁として、ぼくたちの前に現れるだけだ。なのに、その壁に生き生きとした手触りを与えてくれる、あらゆる物語それ自体がひとつの病でしかないとするならば、ぼくたちは、ある物語に敵対するもうひとつの物語を打ち立て、両者の間の意味の闘争を「生きる」しかない。節合とヘゲモニーと敵対性の理論は、物語を読み解くだけではなく、物語を生成し、さらにそれを相対化する上で、きわめて有効な手立てなのである。

 あと、これは本当に付け足し的な感慨なのだが、この本を読みながら、ぼくは日高氏の「良心」をずっと感じていた。例えば、先に引用した部分から最後の数ページにわたる、現在が直面している具体的な問題の例示。あるいは、あとがきで、上野千鶴子の「言説分析は、そう語るおまえは何者なのかという問いを発することによって、研究者をも分析の対象から例外に置かない」を引用しながらの、この本を書くということ自体への内省への言及。この本の骨格をなすものが、日高氏の博士論文(英文)からの和訳という固いものでありながら、一貫して著者の体温のようなものを感じさせるのは、きっとそこらあたりに起因している。
 これは2014年の今ここで読まれなければならない本である。そう思う。

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