緋牡丹博徒 二代目襲名 [DVD]
本作は藤純子が主演を張った女任侠物「緋牡丹博徒」シリーズの第4作目に当たるわけだが、本作での藤純子は彼女の女優としてのピークであったかと思える。緋牡丹お竜という役どころを、もう完全に自分のものにしており、しっくりくる美しさと強さを兼ね備えている女となっているのだ。こんな女優をメインにして映画を作ったら、どんな映画でも面白くなるのではというオーラがビンビンと伝わってくるのである。
ということで、本作もやっぱり面白い映画になっているわけだが、なかなか出て来ない高倉健は、まさに高倉健であるという男を演じて、藤純子の適切なサポート役に回るが、藤純子とのロマンスがほとんど無いのが不満と言えば不満である。不満と言えば、健さんの妹役の雪江がちょっと気といえば健さんの妹役である時美沙を演じた雪江が少し気になる。健さんの妹としては少し華が無さ過ぎるというか、何だかしっくり来ないのだ。半次と雪江のロマンスは、本作では重要な役割を占めているのだが、どうもこの2人が華がの欠けるのは気掛かりで、それが本作の最大の欠点かと思うわけである。
そして本シリーズに欠かせないのが、若山富三郎先生演じる熊沢虎吉であるが、本作で彼に変わって頑張るのは、元川船頭でスケベな貴族院議員になるはずの遠藤辰雄演じる銭丸金吉であり、もっともっと彼に頑張ってほしいと思った次第ではあるが、その一方で、まぁ、これくらいの出番で良かったかなとも思うわけだ。
矢野竜子の悲願は矢野組の再興だから、それを実現した本作でシリーズを終えても良かったわけだが、やはり、まだまだ彼女の魅力からしてシリーズを終えるのはもったいないと東映サイドが考えたかどうだかはわからないが(多分そうだろうが)、結局8作まで続くわけだが、ストーリーなどといった、そういうことを考えないで観た場合、なかなか楽しめる作品ではないだろうか。
ということで、本作もやっぱり面白い映画になっているわけだが、なかなか出て来ない高倉健は、まさに高倉健であるという男を演じて、藤純子の適切なサポート役に回るが、藤純子とのロマンスがほとんど無いのが不満と言えば不満である。不満と言えば、健さんの妹役の雪江がちょっと気といえば健さんの妹役である時美沙を演じた雪江が少し気になる。健さんの妹としては少し華が無さ過ぎるというか、何だかしっくり来ないのだ。半次と雪江のロマンスは、本作では重要な役割を占めているのだが、どうもこの2人が華がの欠けるのは気掛かりで、それが本作の最大の欠点かと思うわけである。
そして本シリーズに欠かせないのが、若山富三郎先生演じる熊沢虎吉であるが、本作で彼に変わって頑張るのは、元川船頭でスケベな貴族院議員になるはずの遠藤辰雄演じる銭丸金吉であり、もっともっと彼に頑張ってほしいと思った次第ではあるが、その一方で、まぁ、これくらいの出番で良かったかなとも思うわけだ。
矢野竜子の悲願は矢野組の再興だから、それを実現した本作でシリーズを終えても良かったわけだが、やはり、まだまだ彼女の魅力からしてシリーズを終えるのはもったいないと東映サイドが考えたかどうだかはわからないが(多分そうだろうが)、結局8作まで続くわけだが、ストーリーなどといった、そういうことを考えないで観た場合、なかなか楽しめる作品ではないだろうか。
日本侠客伝 昇り龍 [DVD]
「日本侠客伝 花と龍」と原作を同じにしているが、先に原作に忠実な中村(萬屋 )錦之助主演「花と龍」2部作や「関の弥太っぺ」等傑作を遺した山下耕作監督が、今回は「仁義なき戦い」を書いた笠原和夫氏の脚本を得て、再び「花と龍」に挑んだ。名作「総長賭博」のコンビが健さんとタッグを組めば期待は高まって当然だ。俊藤プロデューサーの狙いも「総長賭博」を越える傑作誕生にあったのかも知れない。出演者も前回は若富が演じた吉田磯吉を御大片岡千恵蔵が演じる。さらに鶴田浩二、中村玉緒らが脇を固めた、スタッフ、俳優とも重厚な布陣だ。
マキノ監督の色艶のある華やかなタッチとは変わって、落ち着いた風格のある展開になっている。一流が揃って創り上げた作品だけあってシリーズ標準はクリアしている。錦之助、裕次郎、渡哲也。どの玉井金五郎とも違う健さんの玉井金五郎だ。
マキノ監督の色艶のある華やかなタッチとは変わって、落ち着いた風格のある展開になっている。一流が揃って創り上げた作品だけあってシリーズ標準はクリアしている。錦之助、裕次郎、渡哲也。どの玉井金五郎とも違う健さんの玉井金五郎だ。
花と龍〈上〉 (岩波現代文庫)
男と女…運命に翻弄される
二人がメインの作品です。
やがて男と女は巡り会い、
結婚する気はない、といっていながらも
結局は夫婦となります。
男はやがてその人望の高さから
組長になりますし、
女性のほうもそんな彼の子どもを宿します。
だけれどもそんな風になるまでには
二人は数多くの困難に
翻弄されることとなり…
特に女性のほうは途中で操を
奪われそうになったりします。
それでも気の強さが彼女を救いますが…
最後は思わせぶりなラストで
上巻を終えます。
下巻はいかほどになるのか…
二人がメインの作品です。
やがて男と女は巡り会い、
結婚する気はない、といっていながらも
結局は夫婦となります。
男はやがてその人望の高さから
組長になりますし、
女性のほうもそんな彼の子どもを宿します。
だけれどもそんな風になるまでには
二人は数多くの困難に
翻弄されることとなり…
特に女性のほうは途中で操を
奪われそうになったりします。
それでも気の強さが彼女を救いますが…
最後は思わせぶりなラストで
上巻を終えます。
下巻はいかほどになるのか…
土と兵隊・麦と兵隊 (新潮文庫)
私は戦記文学の存在や、この本の2作品の文学性自体は否定しない。
しかし、2作品の根底に見える“偽善”が、どうにも引っかかる。
戦中派の方々には青臭いと思われるかもしれないが、寛恕のうえ私の感想を読んでほしい。
私には、2作品にある“敵”と“味方”との二元的な視点が目触りで仕方ない。
同じ日本人のうちに流れる“同胞意識”は、戦場での様々な場面でこれでもかと描かれる。
しかし一方で「我々の同胞をかくまで苦しめ、かつ私の生命を脅かしているシナ兵に対し、激しい憎悪に駆られた。
私は兵隊とともに突入し、敵兵を私の手で撃ち、斬ってやりたいと思った。」
という記述が私を戸惑わせる。(「麦と兵隊」P217 シナは原文では漢字で表記。なぜかレビューでは漢字表示できない。)
この記述のあとに「私は死にたくないと思った。死にたくない。」という独白が続き、
それ自体は、死地に置かれた人間の心の底からの描写として傾聴したいが、
その一方で、中国人であっても、同じように赤い血が流れ、同じように家族を残して戦地に臨み、
同じように「死にたくない」という強い感情に支配されているのは自明の理であり、
そこを抜け落として語られていることに大きな欺瞞を感じる。
私のなかでは、先の中国兵への殺意を読んだあと、中国兵捕虜を処刑する場面を見た主人公が
「私は眼を反らした。私は悪魔になってはいなかった。私はそれを知り、深く安堵した。」(「麦と兵隊」P275)
と言っても素直に聞けない。
アメリカ人作家が、日本人への殺意をむき出しにして日本を爆撃し多くの日本人の生命を脅かしながら、
それでも私は悪魔にはなっていなかった、と独白するような米国兵が主人公の小説を書いたら、
普通の日本人なら違和感を感じるはず。それと同じだろう。
検閲が支配する当時、素直な心情の吐露が自分の身にどういう形で返ってくるかは同情的に考えてあげないといけないが、
私にはどうしてもこの2作品には、作者が内地の日本人に対し、戦地での一種のヒロイズムを伝えようとした意図しか見えない。
しかし、2作品の根底に見える“偽善”が、どうにも引っかかる。
戦中派の方々には青臭いと思われるかもしれないが、寛恕のうえ私の感想を読んでほしい。
私には、2作品にある“敵”と“味方”との二元的な視点が目触りで仕方ない。
同じ日本人のうちに流れる“同胞意識”は、戦場での様々な場面でこれでもかと描かれる。
しかし一方で「我々の同胞をかくまで苦しめ、かつ私の生命を脅かしているシナ兵に対し、激しい憎悪に駆られた。
私は兵隊とともに突入し、敵兵を私の手で撃ち、斬ってやりたいと思った。」
という記述が私を戸惑わせる。(「麦と兵隊」P217 シナは原文では漢字で表記。なぜかレビューでは漢字表示できない。)
この記述のあとに「私は死にたくないと思った。死にたくない。」という独白が続き、
それ自体は、死地に置かれた人間の心の底からの描写として傾聴したいが、
その一方で、中国人であっても、同じように赤い血が流れ、同じように家族を残して戦地に臨み、
同じように「死にたくない」という強い感情に支配されているのは自明の理であり、
そこを抜け落として語られていることに大きな欺瞞を感じる。
私のなかでは、先の中国兵への殺意を読んだあと、中国兵捕虜を処刑する場面を見た主人公が
「私は眼を反らした。私は悪魔になってはいなかった。私はそれを知り、深く安堵した。」(「麦と兵隊」P275)
と言っても素直に聞けない。
アメリカ人作家が、日本人への殺意をむき出しにして日本を爆撃し多くの日本人の生命を脅かしながら、
それでも私は悪魔にはなっていなかった、と独白するような米国兵が主人公の小説を書いたら、
普通の日本人なら違和感を感じるはず。それと同じだろう。
検閲が支配する当時、素直な心情の吐露が自分の身にどういう形で返ってくるかは同情的に考えてあげないといけないが、
私にはどうしてもこの2作品には、作者が内地の日本人に対し、戦地での一種のヒロイズムを伝えようとした意図しか見えない。