花鳥の乱―利休の七哲 (講談社文庫)
他の方のレビューにもありますが、この本の副題「利休の七哲」は不適切です。正しくは、「茶の湯の嗜みがあった戦国武将7人の一生、オムニバス」といったところです。薄い本なので一気に読めます。
個人的には、高山右近の「天上の城」が一番の拾い物でした。明晰で雄弁。社交術・渡世術に長け、茶の湯や宗門(切支丹)といったサロンの中心であった高山右近の「棄教を拒んだ瞬間に本物の切支丹になった」という話です。キリスト者の書いた本では聖人扱いなので、本書のちょっと生臭いくらいの右近像はとてもしっくり来ました。右近が「天上の城」に焦がれたのは、彼が「地の人」であったからに他ならないのではないでしょうか?
宗門を巡って凄絶な愛憎劇を繰り広げた愛妻ガラシャの忘れ形見の息子二人を生きながら失ってしまう細川忠興の「雨の中の犬」。この人くらい自分の感情と欲望に悩まされた人はなかなか居ないんじゃないでしょうか?出奔した次男が大坂の陣で活躍する姿を見て、
「何てことをしてくれるんだ!」
と狼狽しつつ、
「なかなかやるな。さすが俺とガラシャの子だ」
という辺りが忠興らしい自己矛盾です。
水の流れるように自然に人を裏切る、有楽斎のあっけらかんとした不誠実は、確かに利休に「別格」と云われるだけの茶人だったのだろうなとその洒脱さが偲ばれます。
「お肚召せ召せ召させておいて…」
とは良く云ったものです。それでも何故か赦されてしまう明るい部分がこの人にはあったのかなと思いました(少なくとも、陰湿さは感じられない)。「花の下」という題は、そんな彼の軽やかな華やかさが良く出ていると思います(軽薄ともいう)。
それに比べると荒木村重は、裏切るにしてもそれなりの逡巡の影があり、じっくり読んでみたいところですが、短編ではやはり喰い足りない感じです。明智光秀や松永久秀との関係ももっと深く書いてもらえれば、良かったと思います。
この短編集の主題が最も分かりやすく表れるのが、前田利長の「加賀の狐」でしょう。戦国武者の典型のような父を醒めた目で見る彼のなかに立ち現れるのは、現在わたしたちが「理性」や「近代的自我」と呼ぶような確固とした、かなり利己的な「自分」です。哲学史的には「自我は近代の発見」かもしれませんが、ギリシャの昔だって、「自我」を持った人間はいたはずで、それを呼び表すべき言葉がなかっただけでしょう。
「花鳥に遊ぶしかなかった男たちの物語」というと、「武辺で活躍出来ないから仕方なく花鳥風月を愛でていた」ように聞こえますが、そうではありません。
「名を惜しめ」「死に花を咲かせよ」「主を裏切るな」という武士の美学は、自我に目覚めて「犬死には厭だ」と思ってしまった人間にとっては受け入れがたい。しかし、周りの人間にはそれが、「冷たい」「人とも思えぬ」「それでも武士か」と思われてしまう。自我に目覚めた人間は次第に周囲の人々との軋轢に悩むようになり、社会の外に居場所を求める。
それが、「花鳥風月」や「茶の湯」という形で結晶化していったという視点で、この本は書かれているように思いました。
「花鳥の乱」は自分のなかの殺せない「自我」に苦しんだ男たちの、孤独の闘いの物語なのです。
個人的には、高山右近の「天上の城」が一番の拾い物でした。明晰で雄弁。社交術・渡世術に長け、茶の湯や宗門(切支丹)といったサロンの中心であった高山右近の「棄教を拒んだ瞬間に本物の切支丹になった」という話です。キリスト者の書いた本では聖人扱いなので、本書のちょっと生臭いくらいの右近像はとてもしっくり来ました。右近が「天上の城」に焦がれたのは、彼が「地の人」であったからに他ならないのではないでしょうか?
宗門を巡って凄絶な愛憎劇を繰り広げた愛妻ガラシャの忘れ形見の息子二人を生きながら失ってしまう細川忠興の「雨の中の犬」。この人くらい自分の感情と欲望に悩まされた人はなかなか居ないんじゃないでしょうか?出奔した次男が大坂の陣で活躍する姿を見て、
「何てことをしてくれるんだ!」
と狼狽しつつ、
「なかなかやるな。さすが俺とガラシャの子だ」
という辺りが忠興らしい自己矛盾です。
水の流れるように自然に人を裏切る、有楽斎のあっけらかんとした不誠実は、確かに利休に「別格」と云われるだけの茶人だったのだろうなとその洒脱さが偲ばれます。
「お肚召せ召せ召させておいて…」
とは良く云ったものです。それでも何故か赦されてしまう明るい部分がこの人にはあったのかなと思いました(少なくとも、陰湿さは感じられない)。「花の下」という題は、そんな彼の軽やかな華やかさが良く出ていると思います(軽薄ともいう)。
それに比べると荒木村重は、裏切るにしてもそれなりの逡巡の影があり、じっくり読んでみたいところですが、短編ではやはり喰い足りない感じです。明智光秀や松永久秀との関係ももっと深く書いてもらえれば、良かったと思います。
この短編集の主題が最も分かりやすく表れるのが、前田利長の「加賀の狐」でしょう。戦国武者の典型のような父を醒めた目で見る彼のなかに立ち現れるのは、現在わたしたちが「理性」や「近代的自我」と呼ぶような確固とした、かなり利己的な「自分」です。哲学史的には「自我は近代の発見」かもしれませんが、ギリシャの昔だって、「自我」を持った人間はいたはずで、それを呼び表すべき言葉がなかっただけでしょう。
「花鳥に遊ぶしかなかった男たちの物語」というと、「武辺で活躍出来ないから仕方なく花鳥風月を愛でていた」ように聞こえますが、そうではありません。
「名を惜しめ」「死に花を咲かせよ」「主を裏切るな」という武士の美学は、自我に目覚めて「犬死には厭だ」と思ってしまった人間にとっては受け入れがたい。しかし、周りの人間にはそれが、「冷たい」「人とも思えぬ」「それでも武士か」と思われてしまう。自我に目覚めた人間は次第に周囲の人々との軋轢に悩むようになり、社会の外に居場所を求める。
それが、「花鳥風月」や「茶の湯」という形で結晶化していったという視点で、この本は書かれているように思いました。
「花鳥の乱」は自分のなかの殺せない「自我」に苦しんだ男たちの、孤独の闘いの物語なのです。