吾輩は猫である (新潮文庫)
登場させられる主要人物は、猫の主人である中学教師をはじめ、金持ちやいわゆる大学出と思われる文化人、すなわち当時のエリート達、それも比較的身のまわりにいる人達である。新生明治を現場で引っぱった人々である。猫の目をもって、それらエリートを風刺し、また彼らの会話・行動を通して互いとその社会を風刺する。落語や戯作という伝統的語り口が、歯切れ良く効果的である。猫に語らせることにより、漱石をも含む文化人達を対象化して洒脱、饒舌をもって風刺することをやってのけた。つまり、主な流れは歯切れ良い社会批評である。
そこで考えた。舞台を、現代社会に移し替えて「吾輩は猫である」とやらかしたら、どうなるか?それをやった人は、調べてみたら、漱石の弟子内田百けんをはじめ今までにもいたらしい(未読)。しかし、現代こそ、それをやる価値があるのではないか。政治家、経済人、文化人、教育者、男女関係など、明治後半に比べると多様化し随分違うように見えるけれど、その実はさほど変わらず、落語、戯作風語り口は現代受けしそうではないか。ということは、この小説を現代物として想像しながら読む、という読み方ができるということではないか。そうだ、それをやってみよう。
なお、読むにあたって、現代人には分からないことがずいぶん書かれている。当時は、人口に膾炙したフレーズであっても、現代人には馴染みが薄いことも多い。それらを注解してくれるとありがたい。この岩波文庫版、それに角川文庫版は注が少ない。新潮文庫版の注は50頁余。筑摩文庫版は、その頁に注がついていて、注を見ながらの読み方には便利である。
それから [DVD]
傑作はオープニングを見ただけで大体予感がするものですが、
このときも藤谷美和子の写真が浮かんで来たところで”もうあきまへん”状態になってしまったのを覚えています。隣の女の子が「・・・きれい」って呟いてました。
そのまま4回繰り返して観て深夜になってしまい、当時高校生だった私は家に帰ってえらいこと怒られてしまいました。
以来、死ぬほど映画を観てきましたが、いまだに私の邦画ベストワンです。
触れ合わないラブシーンがここまで濃密になりえるのを見ると、日本人でよかったと思いますです。