暴力の考古学―未開社会における戦争
短い論文ですが、起爆力を持っています。民族学の論文というより、国家批判の視座たりうる「未開社会モデル」を提示するマニフェスト、あるいは今後の研究の緒論ないしプログラムといった意気込みに充ちていて、この「モデル」が起爆力を持っているということです(クラストルは「モデル」という言い方は決してしませんが。)
議論は、未開社会を1領土を持つ地域的集団、2未分化な社会として性格付けたのち、そこから未開社会の存続という政治目的のために手段として戦争が不可欠になることを説明づける演繹的なものです。そして未開社会の〈遠心力・分散化・多の論理〉を〈求心力・統合化・一者の論理〉すなわち国家の論理に抗する社会として対峙させます。
未開社会はつねにすでに他の未開社会(他者・敵)を前提とするということですから、モデルによる論証としてはやや循環論法的な感じがします(フィールドに足を付けた人類学者の論法として読めば違和感はありませんが。)また未開社会が他者をつねに必要とする以上、私にとってはベンヤミンが「暴力批判論」の一文で語った、相手を占領し尽くしてさえなお「講和(という法設定的な暴力)」が不可欠となる云々という戦争の終わりに関する問題が依然残ると思いました。あるいは「インカ帝国(未開社会のタガがはずれて拡大しつづけた「帝国」)」の出現メカニズムをクラストルだったらどう説明づけただろうかといった疑問も沸いてきます(ないものねだり)。
国家批判モデル(「戦争機械」)を鮮烈に響かせる気風のよい本ですが、人類学者としてのクラストルの仕事のほんの端緒にすぎず、読後なお大きな領野の前に放り出された感じが残ります。訳者の補論はそれを継いでいくらか深く耕してくれる優れた考察です。