小さな世界で繰り広げられる人間模様が四編収められている。潮の香りや、日焼けした肌や汗の匂いを感じるような濃密な空気、戒律や上下関係に縛られた静謐な息苦しさ、因習に満ちた漁村・・・、閉じた社会の場面が浮かぶような克明な描写が印象に残る。
表題でもある「ひかりごけ」は事実に着想を得て書かれたフィクションであまりにも有名だが、戯曲であることは知らなかった。しかし閉ざされた空間での濃密な人間関係という状況は共通している。むしろ極限の人間関係と言える。
戯曲の形を取っているのは描写する事実の重さを少しでも緩和するためか、もしくはあまりの極限状態に置かれた主人公たちには内面を語ることのない本能しか残っていなかったからだろうか、そんなことを考えながら読んだ。裁判で食人の状況証拠が淡々と述べられる展開の中で、主人公の最後の発言は重く、人間の根元に訴えるものが感じられた。
罪と罰おすすめ度
★★★★★
私は、人間は「自己都合をつけたがる」本能を持っていると思う。
つまり、例えば欲求(ここでは食欲)を満たしたいと思えば、
普段だと食べ物に手を伸ばせばよいのだが
それが困難な状況では、人間は脳内で自分に合理的な理屈をこねくり回そうとするのである。
その理屈が合法的な範囲内ならば、それでもいい。
しかし合法的には不可能な場合はどうか。脳はどういう理屈を見つけ出すか。
「ひかりごけ」には、食料備蓄の全く無い、冬の隔離された小屋に閉じ込められた4人が登場する。
そのままいけば4人は共倒れとなってしまう。全員飢え死となるのか。
登場人物の1人の船長の脳内に、ある理屈が浮かんだ。
いや、全員生存は無理だが、生き残れる可能性がある。
その理屈=自己都合は、果たして正当か。
作者はそれを極限状態下と、救出された後の平常時と、2種類の状態から照らし出そうとする。
我々は法治国家で生活する以上、極限であろうと平常であろうと同じルールの支配を受ける。
その一般論と、船長が極限下で捻出した自己都合とのせめぎあいが、この作品の核となっている。
この問題はラスコーリニコフによっても提示されているが、どちらが正しいかは今の私にはわからない。
私も状況によれば、船長にも、ラスコーリニコフにもなる恐れをもっている。
ある角度から、ある瞬間にだけ光って見えるというひかりごけ。
見た者でないと、その光について語ることはできない。
我々は生きる以上、この命題から逃れられないかもしれない。
野火と読み比べてみておすすめ度
★★★★☆
とても面白い本だと思います。特に、この中で出てくる校長先生のキャラクターには忘れがたいものがあります。
しかしこの本に関心を示す人であれば、是非に(まだ読んでなければ)、大岡昇平の『野火』も読むべきだと思います。扱う問題の種類としては、大岡の先を行く興味深さはありますが、『野火』の文章が持つ迫真力には及ばないようにみえます。
それでも、やはり節目、節目に思い出されるべき重要な作品であると思います。
常に己を振り返らなくてはならない
おすすめ度 ★★★★★
人を食べたことのある人の頭の上には光の輪が見えるという。
「人を食べる」というのはあくまで暗喩だ。
戦争中におきた事件を題材に展開される物語を通して、強烈に批判されているのは、自分が正しいを信じて疑わない人たちであると思う。
僕たちも常に己を振り返らなくてはならない。気がつかないところで人を食べていないかということを。