加賀乙彦 自伝
作家であり、精神病医師である著者の自伝。長編小説を得意とし、自伝的小説に『永遠の都』『雲の都』などがあるが、これらの小説のどこがフィクションでどこが実際にあったことなのかを種明かししようという企みもあって、この本が出来上がったようである。
実際には編集者が著者に質問し、それに対して著者が丁寧に、正直に答え、それに註をつけ、写真を示し、年譜を補って、結果としてありのままの自伝になった、と「あとがき」にある。戦前、戦後の大事件を背景に(最初の記憶は2・26事件)、著者のたどってきた道のりがよくわかる。小説を書きたかった、それも長編小説を、というのは著者の若いころの凄まじいともいえる読書、トルストイ、ドストエフスキー、モーパッサン、バルザック、ハーディ、ホーソーンなどを読破した賜物である。医学の道に入り、精神医学を専門とする。この間、セツルメント活動にのめりこみ、マルキシズム、キリスト教に触れる。拘置所での死刑囚、無期懲役囚とのヒアリング、フランス給費留学生の経験も(サンタンヌ精神医学センター、フランドル地方サンヴナン村の精神科の病院)、著者の文学の世界の構築の滋養となった。
精神病理学の専門分野での業績も豊かである。ヤスーパース、フロイトなどとの格闘の軌跡は興味深い。いわゆる文壇とは距離をおきつつ、しかし大岡昇平、遠藤周作、大江健三郎、辻邦生、立原正秋、高井有一、土居健郎などとの交流がかなり細かく書かれてている。
目標とする文学は、リアリズムを前提とした長編小説、そして、首都東京の履歴を描くこと。辿り着いて、キリスト教徒となる(「いかにしてキリスト教徒となりしか」)。本書は妻の死から始まり(自身の心臓病)、父、母の死で結ばれている。
実際には編集者が著者に質問し、それに対して著者が丁寧に、正直に答え、それに註をつけ、写真を示し、年譜を補って、結果としてありのままの自伝になった、と「あとがき」にある。戦前、戦後の大事件を背景に(最初の記憶は2・26事件)、著者のたどってきた道のりがよくわかる。小説を書きたかった、それも長編小説を、というのは著者の若いころの凄まじいともいえる読書、トルストイ、ドストエフスキー、モーパッサン、バルザック、ハーディ、ホーソーンなどを読破した賜物である。医学の道に入り、精神医学を専門とする。この間、セツルメント活動にのめりこみ、マルキシズム、キリスト教に触れる。拘置所での死刑囚、無期懲役囚とのヒアリング、フランス給費留学生の経験も(サンタンヌ精神医学センター、フランドル地方サンヴナン村の精神科の病院)、著者の文学の世界の構築の滋養となった。
精神病理学の専門分野での業績も豊かである。ヤスーパース、フロイトなどとの格闘の軌跡は興味深い。いわゆる文壇とは距離をおきつつ、しかし大岡昇平、遠藤周作、大江健三郎、辻邦生、立原正秋、高井有一、土居健郎などとの交流がかなり細かく書かれてている。
目標とする文学は、リアリズムを前提とした長編小説、そして、首都東京の履歴を描くこと。辿り着いて、キリスト教徒となる(「いかにしてキリスト教徒となりしか」)。本書は妻の死から始まり(自身の心臓病)、父、母の死で結ばれている。
宣告 (上巻) (新潮文庫)
死を待つ恐怖とは人間を狂わせてしまう程、苦しい事ということを知りました。死刑と言葉にしてしまうのは簡単ですが、死刑囚も私と同じ人間で苦しみがわかる人間だということを再確認しました。
悪魔のささやき (集英社新書)
本書の感想をひとことで言えば,とにかく「怖い本」だった。
著者はあまりにも高名な,精神科医・犯罪学者・文学者である。人を見る目は,冷静で思慮深く慈愛に満ちている。また,人間を表現するのに,科学的・哲学的・文学的な数々の方法を駆使し,人物像や行為の説明を根源から積み上げていく業は,至高の域に達している。およそ,傲慢な決めつけや空疎なレッテル張りなどとは対極にいる人物だ。
その著者にして「悪魔がささやくとしか言いようのない」瞬間というのが存在すると言わしめる,人間の心のうごきとはどんなものなのか。その結果,人は罪を犯し,自らをも傷つけるという。多くの犯罪者や精神科の患者さんに相対し,彼らを理解することに全霊を傾けてきた著者がつかう(つかわざるを得ない?)「悪魔」ということばの表すものは,いったい何なのだろう。
それは,すべての人にとって無縁のものではないという。著者にとってすら。もちろん,私にもあした降りかかって来るかもしれない。いや,よく考えれば,日常のそこここで,すでにその声を聞いているような気がする。著者のことばに耳を傾けると,思い当たることは余りにも多い。今までは,たまたま崖のこちら側に転んで,向こう側に落ちなかっただけのことなのかもしれない。
日ごろ歩いている道のすぐ横に,深い穴が大きな口を開けているのに気付かされるような本だ。
著者はあまりにも高名な,精神科医・犯罪学者・文学者である。人を見る目は,冷静で思慮深く慈愛に満ちている。また,人間を表現するのに,科学的・哲学的・文学的な数々の方法を駆使し,人物像や行為の説明を根源から積み上げていく業は,至高の域に達している。およそ,傲慢な決めつけや空疎なレッテル張りなどとは対極にいる人物だ。
その著者にして「悪魔がささやくとしか言いようのない」瞬間というのが存在すると言わしめる,人間の心のうごきとはどんなものなのか。その結果,人は罪を犯し,自らをも傷つけるという。多くの犯罪者や精神科の患者さんに相対し,彼らを理解することに全霊を傾けてきた著者がつかう(つかわざるを得ない?)「悪魔」ということばの表すものは,いったい何なのだろう。
それは,すべての人にとって無縁のものではないという。著者にとってすら。もちろん,私にもあした降りかかって来るかもしれない。いや,よく考えれば,日常のそこここで,すでにその声を聞いているような気がする。著者のことばに耳を傾けると,思い当たることは余りにも多い。今までは,たまたま崖のこちら側に転んで,向こう側に落ちなかっただけのことなのかもしれない。
日ごろ歩いている道のすぐ横に,深い穴が大きな口を開けているのに気付かされるような本だ。