献灯使
未来について、こんなふうに語られたことってあっただろうか。いつしかわたしたちは、輝ける近未来を思い描けなくなっていて。多和田葉子さんには、なにがみえるのだろう。希望はあるのだろうか。希望という概念さえ、もう未来には機能しないのだろうか。それでも、つきつめていくとホワイトアウトしてしまいそうな、意識の向こうに、未知の美しさについての確信が残る。それは、化合物ではない毒、生物だけが精製しうる毒の美しさ。小説家という生物にはそれが作れるのだと、つくづく思った。そしてそれは、きっとこれからもまだまだ精製されて、それを食らったものの感覚を研ぎすましていくようなのだ。
言葉と歩く日記 (岩波新書)
ドイツ在住の日独語で作品を発表する著者のエッセイ集。著者の作品は、詩、戯曲、小説にエッセイと幅の広い作家である。国際的にも人気のある作家である村上春樹とは一線を画して、2カ国語で創作し、原則的に自著翻訳はしていない。だが、多言語に著作が翻訳されている関係と作品の朗読の意義を重視している関係で、著者の朗読会に招聘されると気安く引き受けているところに日本の売れっ子作家とは、やや趣が異なる。欧米の作家と同じく、自著朗読を引き受けている。その場所はEU、韓国、アメリカなど国際的な拡がりがあり、作品の翻訳者たちを含めて、多様な人間関係が、著者の明晰な文章を維持しているようにも見え、彼女の文学作品、言語、作家性と読者(解釈や翻訳を含めて)との関係性を、自らの創作過程への反照を含めて、旅行記の形式で書かれた日記。
実に多様な言語感覚、それに日常での観劇やコンサート経験など作家に影響を与える知的体験を描写しながら、五官をはりつめつつ、リラックスさせながら、作家が如何に言葉を通して作品を紡ぎ出すかを気取らず書いていて、刺激されるが、彼女作品にはいつもドイツ語のフモール(Humor)を意識していることが、毎日の最後に記される。言葉遊びと想像力の深遠な結びつきが、彼女の創造の源泉であり、読み飽きさせない柔軟な感性を維持する方法なのだろう。
しなやかに多言語の世界で創作する著書のヒミツが隠され、公開された1冊。
実に多様な言語感覚、それに日常での観劇やコンサート経験など作家に影響を与える知的体験を描写しながら、五官をはりつめつつ、リラックスさせながら、作家が如何に言葉を通して作品を紡ぎ出すかを気取らず書いていて、刺激されるが、彼女作品にはいつもドイツ語のフモール(Humor)を意識していることが、毎日の最後に記される。言葉遊びと想像力の深遠な結びつきが、彼女の創造の源泉であり、読み飽きさせない柔軟な感性を維持する方法なのだろう。
しなやかに多言語の世界で創作する著書のヒミツが隠され、公開された1冊。