花から花へ
彼女の美貌は定評がありますし、このアルバムのリーフレットでも舞台風景のスナップ・ショットや華麗な衣装に身を包んだ彼女のポートレイトが掲載してありました。
幅広い音域をもち、たっぷりとした声質のソプラノです。その美貌ゆえマリア・カラスの再来と言われていますし、実に巧みな表現力からもそれが伺えます。
ヴェルディ《椿姫》から〈ああそはかの人か…花から花へ〉、ベルリーニ《夢遊病の女》から〈おお花よお前に会えるとは思わなかった…おお思いもよらないこの喜び〉、ベルリーニ《清教徒》から〈やさしい声が私を呼んでいた…さあ、いらっしゃい愛しい人〉、ドニゼッティ《ランメルモールのルチア》から〈優しいささやきが…香炉はくゆり…苦い涙をそそげ〉、ヴェルディ《オテロ》から〈泣きぬれて野のはてにひとり…アヴェ・マリア〉、そしてボーナス・トラックのプッチーニ《ジャンニ・スキッキ》から〈私のお父さん〉と世界の過去のプリマ・ドンナに挑むかのような選曲です。
それを実に堂々と歌い上げているわけですから、拍手喝采なのは言うまでもありません。
オペラの頂点にたったクラウディオ・アバド指揮、マーラー・チェンバー・オーケストラ、ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ合唱団をバックに従えて、臆することなく、これらの難曲をいとも簡単に魅力的に歌うわけですから、人気が出るのも当然でしょう。役どころをしっかりと捉え、その心情を声にのせるという技巧も十二分に持ち合わせています。
狂乱の場でのコロラトューラもしっかりと声が出ています。コロラトューラの音楽を歌うよりも太い声質ですが、音域の広さが他のディーヴァにない持ち味となって伝わってきました。
ラストの〈私のお父さん〉の伸びやかな歌唱を本場のイタリアの合唱団員はどのように感じ取ったのでしょうか。これぞ名唱、これぞ名プリマ・ドンナといった演奏でしたので。
幅広い音域をもち、たっぷりとした声質のソプラノです。その美貌ゆえマリア・カラスの再来と言われていますし、実に巧みな表現力からもそれが伺えます。
ヴェルディ《椿姫》から〈ああそはかの人か…花から花へ〉、ベルリーニ《夢遊病の女》から〈おお花よお前に会えるとは思わなかった…おお思いもよらないこの喜び〉、ベルリーニ《清教徒》から〈やさしい声が私を呼んでいた…さあ、いらっしゃい愛しい人〉、ドニゼッティ《ランメルモールのルチア》から〈優しいささやきが…香炉はくゆり…苦い涙をそそげ〉、ヴェルディ《オテロ》から〈泣きぬれて野のはてにひとり…アヴェ・マリア〉、そしてボーナス・トラックのプッチーニ《ジャンニ・スキッキ》から〈私のお父さん〉と世界の過去のプリマ・ドンナに挑むかのような選曲です。
それを実に堂々と歌い上げているわけですから、拍手喝采なのは言うまでもありません。
オペラの頂点にたったクラウディオ・アバド指揮、マーラー・チェンバー・オーケストラ、ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ合唱団をバックに従えて、臆することなく、これらの難曲をいとも簡単に魅力的に歌うわけですから、人気が出るのも当然でしょう。役どころをしっかりと捉え、その心情を声にのせるという技巧も十二分に持ち合わせています。
狂乱の場でのコロラトューラもしっかりと声が出ています。コロラトューラの音楽を歌うよりも太い声質ですが、音域の広さが他のディーヴァにない持ち味となって伝わってきました。
ラストの〈私のお父さん〉の伸びやかな歌唱を本場のイタリアの合唱団員はどのように感じ取ったのでしょうか。これぞ名唱、これぞ名プリマ・ドンナといった演奏でしたので。
あゝ、荒野 (角川文庫)
寺山修司が世間の注目を一身に浴び始めた1966年に、この小説はかかれている。
当時の修司は、俳句から短歌を経て、天井桟敷を立ち上げていた。
まさにマルチな才能を発揮していた頃だ。
この本は、「小説」らしい起承転結のようなものが希薄で、流されるように
ポップな雰囲気でエピソードが重複的に並べられる。
しかし、それらのエピソードが密接につながっている。
時折、挿入される短歌や詩が、いい。
とくに、全15章の章扉裏に書かれた短歌は秀逸だ。
もちろんこれらの短歌は、当時すでに発表されてたものがほとんどだが、
妙にストーリーと合っているのだ。
まるで「音楽」が聞こえてくるような小説である。
当時の修司は、俳句から短歌を経て、天井桟敷を立ち上げていた。
まさにマルチな才能を発揮していた頃だ。
この本は、「小説」らしい起承転結のようなものが希薄で、流されるように
ポップな雰囲気でエピソードが重複的に並べられる。
しかし、それらのエピソードが密接につながっている。
時折、挿入される短歌や詩が、いい。
とくに、全15章の章扉裏に書かれた短歌は秀逸だ。
もちろんこれらの短歌は、当時すでに発表されてたものがほとんどだが、
妙にストーリーと合っているのだ。
まるで「音楽」が聞こえてくるような小説である。
あゝ、荒野
この小説に出てくるのは、みんな、どこか「壊れた」人たちである。たぶん平成の現代の世の中では、変人扱いされたり、何するか分からない怖い人として疎まれたり、社会から排除されてしまうのではないか。しかし、昭和という時代は、そういう壊れた人たちを許容し、包み込むことができた。高度成長の中で、地方から東京に出てきて、自分の中の何かをよりどころにして必死に生きていた人たち。そういう人たちの「生きることのせつなさ」を描かせたら、寺山修司は天下一品だ。これは、昭和という時代が書かせた小説だと思う。でも、人間の根底には、いつも、こういう「せつなさ」があるとも思うのだ。