ハンター [Blu-ray]
静かで、力強い映画である。
フリーの傭兵でハンターのマーティン(ウィレム・デフォー)が、幻の珍獣、タスマニアタイガーを探して、タスマニア島にやってくる。彼はベースキャンプとして、自然保活動を行うアームストロング家に逗留することになる。利発な少女サス(モルガナ・デイビス)と、言葉がしゃべれない弟のバイク(フィン・ウッドロック)、寝たきりの母ルーシー(フランシス・オコナー)。動物学者の家長は、数ヶ月前に森に向かったきり行方不明となっていた。
大学の研究者を装って調査を始めたマーティンに対し、町の住民は敵意をむき出しにし、たびたび嫌がらせをする。そして、原生林に足を踏み入れたマーティンは、姿の見えない何者かが、自分と同じくタスマニアタイガーを追っている事に気づく。不穏な影が、マーティンと、彼が身を寄せる一家に迫る・・・。
タスマニアタイガーは、かつてオーストラリアのタスマニア島に生息していた有袋類。中型の犬ほどの大きさで、下半身にトラのような模様をもつことからその名前がついた。白人がタスマニア島に入植してから、家畜を捕食するという理由で駆除され激減。1936年に、最後の一匹と思われる、捕獲されていた個体が死亡し、絶滅したといわれている。
ウィレム・デフォー演じるハンターは、タスマニアタイガーの目撃情報を入手したバイオテクノロジー企業から、捕獲の依頼を受ける。
凄腕の傭兵として、他人と交わる事を長年避けて生きてきたその男は、タスマニア島にやってくる事で様々なものと「対峙」する事になる。
町の住民は林業で生計を立てていて、自然保護のために大々的な調査が開始されれば木が伐採できなくなり、生活が成り立たなくなる。つまり自然保護活動家を蛇蝎のごとく嫌っているのである。
一家の家長が失踪してしまっている家族。この家族はエコロジストだ。父親不在の子供たちや、夫の帰りを待つ妻との共同生活・交流の中で、ハンターは長い間忘れていた温もりや、人としての心を取り戻してゆく。
一方、利権を追い求める冷徹な企業は、期限内にタスマニアタイガーを捕獲するよう、脅迫まがいの圧力をかけてくる。
とにかく、ウィレム・デフォーが踏み込む、タスマニアの手付かずのままの原生林、荒々しい岩場、荒涼とした高原地帯・・・その、もの言わぬ自然の強烈な生命力と神秘、迫力に圧倒される。そして、人間という存在の矮小さを思い知らされる。
現地のガイド(演じるはサム・ニール)にも頼らず、ただ一人その荒々しい自然の中に踏み込み、淡々と罠を仕掛け調査を続けるストイックなキャラクター。
そして、タスマニアタイガーをつけ狙う、姿の見えない「もう一人のハンター」の気配、町の住民の悪意・・・ピリピリした緊張感、張りつめる不穏な空気。
見果てぬ幻獣「タスマニアタイガー」はいずこ?
「原初の自然」「悪意」「陰謀」そして「温もり」・・・
様々なものと対峙し、その男はどんな答えを見つけ出すのか。
静かで、力強く、そして感動的な映画である。
プラトーン [Blu-ray]
この映画は、完成度が高いですが、ちょっと重すぎますねえー。僕は、この時代生まれてないのですが、この時代生きていた方、団塊世代の方が見ると必ずというほど、涙を流す映画らしいです。(僕の父親がこの映画見ると必ず涙を流します。)凄いですよこの映画。戦争は、恐ろしいとリアルに知るには、いい映画ですが、僕個人的には、1度見たらとう分見たくないです。
饗宴 (新潮文庫 (フ-8-2))
ソクラテス(プラトン)の説く愛について要約すると、「愛とは善きものを求め、尚且つその善きものが永遠に自分のものになることを目的とする」ということになる。
愛が善きものを求めるというのは、エロース(愛の神)が愛される対象の方ではなく、むしろ愛する者であるとして考えることを要求する。誰かに愛されるのはやぶさかでない。それは善きものとして認められることに喜びを覚えるからである。他方、誰かを愛するのは切なさを伴う。それは自己所有していない善きものを希求するからである。だが、愛の神はこの「愛する」方にのみ属しているのであり、だからこそ愛する者に愛は存在するものの、ただ愛されるだけの者に愛は存在しないのである。
善きものが永遠に自分のものになるには、古いものから新しいものが生み出され、それからまたさらに新しいものへと継承されていくことで実現される。このことは、子孫を残すといった肉体面に限らず、偉大な思想や徳といった知慮の徳を残すといった精神面にまで広げられるのであるが、「プラトニック・ラヴ」という言葉があるように、そういった精神的愛こそソクラテス(プラトン)の目指す究極の愛なのである。けれども、だからといって肉体的愛が決して否定されていないことに注意したい。ソクラテス(プラトン)は精神的愛へ発展するための入り口として肉体的愛の必要性を謳っていて、まず肉体を愛し、そこから出発して階段を上がるように精神的愛へと上昇していき、そして辿り着く先にこそ究極の美、つまりイデアがあると説いているのだ。
いつのまにか「プラトニック・ラヴ」という言葉が、肉体と切り離された、純粋な精神的愛としてステレオタイプ化されているが、実際には肉体と連続する精神的な愛を指しているのである。