アスペルガーの偉人たち
単に「昔の偉い人」という捉え方でこの本を読むことはできませんでした。なぜなら、あたしもアスペルガーだからです。
そして単純にこの本のなかのミスを言わせていただきますと、初めにの部分の13ページの中ほどの
「アスペルガー症候群とされるほとんどの人は他社との交流したい、社会の一員になりたいっていう要求ありますが、高機能自閉症者の場合はしばしば孤独である方がはるかに満足でき、「自分だけの世界」に住んでいます。」
という部分に違和感を感じ、主治医に聞いたところ「これは間違っていますね〜」と返事が返ってきました。
さらに、あたしが違うと思うところは、
「外観には頓着せず、時と場所にかかわらず同じ服装をする傾向があります。」
とありますが、私は学生の頃は服飾を学んでいたし、おしゃれには興味があります。
逆に、
「時間には厳密で恐ろしいほど正確」
とありますが、あたしはわりとルーズです。
でもまあ、この本に関してはそういう間違いも許すことができます。なぜなら著者もアスペルガー症候群だからです。少しでもこの症候群のことを知ってもらいたいとのことで書いたそうです。そういう気持ちはあたしもアスペルカーですから本当によく分かります。
アインシュタインの
「非常に早い時期に、人からできるだけ影響を受けず、他者と分離した存在として自己を確立することを自らに課していました。」
と言うのは当事者としては尊敬するところです。賢いと言うか、アスペルガーとしてはそうしていたほうが楽だから…
グレン・グールド シークレット・ライフ
グールドの音楽のファンでしたが、私生活についてはほとんど知識の無いまま本書を読み始めました。これまでまったく表に出てこなかったとの印象的なエピソードの数々に、その人となりを知らずにいた頃よりもずっと彼に親しみを感じ、以前に増して大ファンになりました。証言者も歳を重ねる中、時期的にもよくぞ、という貴重な書籍(グールドご本人の意向はわかりませんが、ファンにとって、また音楽史上)だと思います。大事にしたいです。
バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年録音)
たとえばマレイ・ペライアは、敬虔なクリスチャンだったバッハに寄せて、曲の全体を分析している。
「25変奏」で曲の温度が一変する、と。「25変奏」は十字に架せられたイエスの苦悩、絶望、嘆き、死のイメージを表し、
それ以後は決定的なキリストの復活とその歓喜、天への駆け上がり、飛翔する魂を音楽化していると彼は述べる。
1955年版のグールドの演奏を聴くと、たぶん彼はそんなことなど考えて演奏しなかったろうが、
いつもペライアのこの解釈を思い出す。当のペライア以上にそのことが表現されているように思えるからだ。
1955年の「25変奏」は、それまでのドライブする転がる玉のような演奏から一転して、
グールドも6分30秒近くかけて演奏している。
ペライヤは7分23秒。グールド1981年版は6分3秒と、1955年版よりも短い。
「25変奏」以降の展開で、1955年版と1981年版で最も演奏時間が異なるのは「31変奏」。
最後をしめくくるアリアのひとつ前の変奏。それが1981年版演奏では、倍近く演奏時間が引き延ばされている。
ペライア解釈に引き寄せていうなら、グールドは、天への駆け上がり、飛翔する魂を、この時点で地上に引き戻した。
神を神のまま、その勢いのままに昇天させたのが1955年版の演奏だが、
彼はここで神を、地上の人に戻して、ふたたび大地に置いた(神の人間化)。
だから最後のアリアの味わいが両者でまったく異なっている。演奏時間も倍に近い。
1955年版の演奏では、最後のアリアが真の復活であり、昇天が地上への再来であることを明かし、朗らかに終わる。
それは最初のアリアにそのままつながる。
しかし1981年のラストのアリアは、単なる静謐ではないし、諦念でもなく、苦渋そのもの。
味わいはにがく、しぶい。小津安二郎との連関を語るなら、誕生と死の偶然的な一致ではなく、
小津の墓碑に刻まれた1文字を思うべきだろう。グールドの1981年演奏の最後の音の後には、何も続かない。
この転換、違いは決定的で、単に、グールドが自分のキャリアを同一の曲で閉じ、円環を完成させたとか、
そういう類のことではない。
最後にそれまで触れなかったショパンを1枚だけ吹き込んで終わっても洒落として決まっただろうし、
ホールにひとりだけ(数人でもいいが)観客を呼んで、ライブ録音したものを遺してもよかった。
だがこの曲を演ったのは、そこでどうしてもやっておきたいことがあったし、
それがやり残されていたからだろう。
それはいったい何だったのか。それが聴くものにゆだねられている。
グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独 [DVD]
日本では昨年(2011年)に公開されたグレン・グールドのドキュメンタリー映画。見逃していたのでDVD版を購入してみた。結論を言うと、非常に満足のいく内容だった。ここ10年ほどのあいだにグールドに関するドキュメンタリーがDVD等で何枚か発売されているようだが、それらに関する情報を表面的に収集しただけで判断すると、特に目新しい情報が入っているわけではないような気がしていて、結局は購入するにはいたっていない。そんな流れで、本作品もはたしてどんなものかと半信半疑で購入してみたのだが、これまで知らなかったグールドの一面を知ることができて個人的にはとても満足している。
一昨年‘The Secret Life of Glenn Gould: A Genius in Love’(邦題『グレン・グールド シークレット・ライフ』)という本が出版されたが、この本はグールドの知られざる女性関係について焦点を当てていて、かなりスキャンダラスな内容だった。この本にも出てくるコーネリアス・フォス、フランシス・バロー、ロクソラーナ・ロスラックという3人の女性が本作品にもインタビューに答える形で出演している。なかでも、コーネリアス・フォスとの関係は深いものだったようで、本編の3分の1ほどは彼女との関係に充てられている。フォスの夫はルーカス・フォスという優秀なピアニスト/作曲家で、60年代にグールドと知り合った。交友が進むにつれ、グールドは妻のコーネリアの方とも親しくなっていった。やがてコーネリアとルーカスの結婚生活がうまく行かなくなり、それと合わせるようにコーネリアはグールドに想いを寄せるようになる。やがて、68年頃にコーネリアは2人の子供(息子と娘)を連れてルーカスのもとを離れることになった。その後、グールドと正式には結婚はしなかったものの、グールドの自宅に近い場所に居を定め、2人の関係は非常に幸福な形で進んだようだ。現在は成人している2人の子供たちも本作品に出演しており、インタビューでグールドと過ごした良き日々について語っている。非常に良好な関係を築いていたことがわかる。ところが、グールドの奇行が目立ち始め、フォスを束縛するようになっていったらしい。結局、4年ほどでフォスは夫のルーカスのもとに戻ることになった。誤解されると困るので強調しておくが、このように言葉だけで説明してしまうと、フォスがいかにも浅薄な女性に見えてしまうが、本編を見ればこの不思議な三角関係がある意味必然の流れで構成されていたことが理解できるだろう。また、ある種の悲哀に満ちた秘話だということもできると思う。
その他、興味深かった場面について記しておく。
・その一部は写真集(『グレン・グールド 光のアリア』)で見ることができるジョック・キャロル制作のグールド主演の短篇映画(カラー)の映像は必見! 演技とはいえ、バハマの海辺ではしゃぐグールドの姿は若々しい。そのはしゃぎっぷりに正直おどろいた。
・グールドの右腕として活躍した編集エンジニアのローン・タークがグールドからもらったという「第2の椅子」のことが特典映像に収められている。この椅子もグールドが父親に予備のために作ってもらったものだという。グールドにまつわる非常に貴重なメモラビリアのひとつ。
・尺としてはごく短いものだが、ソニーの専属カメラマンだったドン・ハンスタインのインタビューが入っていてうれしかった。この人の写真集‘Keeping Time: The Photography of Don Hunstein’(グールドだけでなく、ボブ・ディランやマイルス・デイビスなど有名なミュージシャンを撮った写真が収められていて超貴重!)がたしか今年出るらしく、実は買おうかどうか迷っている。
グレン・グールドは語る (ちくま学芸文庫)
詳細についてはもうお二人がレビューされてますので、私は省きます。
音楽についてグールドが専門的な語句や言い方をすると、コットが音楽について詳しくない読者にも分かり易い様に(説明・解説調でなく)巧みに返答します。グールドもプリズムの様に音楽について語ってゆきます、脳内が音楽で充満しているからあの一言では片付けられない素晴らしい演奏が出来るのかと思い知らされます。
音楽について色々な事覚えられ、あっという間に読み終えてしまいました。
日本でグールド研究の第一人者である宮沢淳一氏の解説も詳しく両者・ローリングストーン誌・その他について日本の若年層にも分かり易く書いてあります是非一読を。
グールドは心気症や神経症に悩まされた人物ですが、コットも後に鬱病になりECT治療で記憶の1/3か2/3?失ったけど(あれほどの人が鬱になるとは個人的にショックでした)グールドの事は記憶に残っていた嗚呼ビックリ!!