橋本愛 2013カレンダー
橋本愛さんの2013年版カレンダーです。
2010年から2012年にかけて撮影された写真集「あいの降るほし」の未収録カット8枚で構成されています。
写真集より大きいB3サイズなので、より臨場感をもって橋本さんに向きあえました。
衣装と構成は以下の通り。カッコ内は撮影時期です。
表紙:正対した顔のアップ(2012年5月26日)
1月2月:サスペンダーに蝶ネクタイ(2011年8月31日)
3月4月:ワンピースにショルダーバッグ(2011年3月28日)
5月6月:半袖のスクールブラウス(2010年晩夏)
7月8月:ノースリーブのワンピース(2010年7月23日)
9月10月:セーターにスカート(2010年晩秋)
11月12月:革ジャンにデニム(2012年3月11日)
最終頁:ハットに蝶ネクタイ(2011年8月31日)
橋本さんがある区切りをもって昨年を述懐された言葉「古い私」を想うと
表紙と11月期の2カットが、新しい橋本愛となるのかもしれません。
取り返しのつかない時間の孤独の中で、生命の美が“これから”には宿らず、“今この瞬間”にのみ宿り続けるのならば、
橋本さんの激しく静かな命の音に、耳をすませたい。
表紙に象徴されている橋本さんのまなざしには、観る者の投影が許される奥行きを感じます。
映画「ツナグ」の“嵐美砂”において、生涯を貫くザンキの叫びが
個人の感情の爆発を超えて、生命の慟哭へと達していたように、
すでにそれを抱えてしまった者の、いずれそれを抱えてしまう心の、依り代にさえなれる資質。
もらい泣きを乞えず、傷口を誇れず、ただ沈黙と拮抗するしかない呻きになら、涙を託せるかもしれない。
そんな予感を橋本さんにだからこそ覚えました。
あたかも文化を経由せずに、直接血肉の記憶が呼び覚まされる匂いを。
早瀬のしぶきに目を流されることなく、心に青い水を湛える深い淵を持ち、
青がその色を深める底にまで降りていく事で、ようやく触れられるような美に、厳しい安らぎを感じます。
橋本さんが御自身を深めておられるように、自らのまなざしを日々深める事によって
淵に水を注ぐ力を与えてくれるカレンダーです。
橋本愛 写真集 『 あいの降るほし 』
橋本愛さん単独初写真集です。
2010年7月23日から2012年5月末にかけて、14歳から16歳に至る橋本さんの
ドキュメントとなっており、幼少時のプライベート写真も9カット掲載されています。
衣装はワンピースを中心に、デニムやタンクトップ、ベスト、革ジャン・ブーツ姿など。
撮影はUTB誌にて、鞘もツカも付けない抜き身の刀身のような橋本さんを撮影してきた熊谷貫さん。
その熊谷さん撮影によるUTB初登場の2010年10月号、12月号を始め、最新の2012年UTB+9月号へわたって
掲載されてきた極めて重要なカット達は、ほぼすべて未収録なので、もし未見の方がおられたら
ぜひとも入手される事をお勧めします。
本はまず2012年5月の都内夜間撮影から始まります。それ以降は2010年7月豊洲から、鎌倉、沖縄と
撮影の時系列に沿っており、その時その場所で何を思い、どんな空気を吸ってきたかという
橋本さんの“記憶を記録にした”構成となっています。
黒髪から立ち上る太陽の匂いも、肌に触れる風の温度も、みな聞こえてきました。
橋本さんには、見る者の感情を操作しようとする示威がありません。ここには生地を塗り潰す極彩はなく
あえて説明しない余白もなく、決して理解しえない透明な漆黒が開いています。
外側から押し倒す力ではなく、内側からえぐり与える美。
そのような見る者の当事者性を掘り下げる美にこそ、凄絶が宿ることを知りました。
4ページ10000万字に渡るインタビューでは、幼少の家庭環境や学校生活、仕事を始めてからの悩みや変化、
そして機会を節目と捉え、考えを深化させていく過程が話されています。
そこには選ばれし者の陶酔は微塵もなく、ただ愛を背負う覚悟がありました。
砂利を噛みしめた血の味を感じながら、ものごとを肯定し
才能に伴う残酷さに、美しさを宿せる人なのだと感じます。
死生観の暗がりが美を育み、自我を超える事象への畏れが、美の陰影を深めていく。
世界のトーンは変わり、橋本愛のトーンも変わる。本質は変わらないままに。
「確実に、1冊の中で、私の形が変わってる。
さっきまであんなに明るかった外が、いつの間にか真っ暗になってた。そんな感じ。少し寂しい」
「普通の日常の大切さっていうのは何よりもわかっていて。今見ているものや感じてることを
気持ちに焼き付けようと思って日々過ごしてきた」
「スレたくないです。今の私を好きだと思ってくれている人が、ずっと好きでいられる自分でいたいです」
ラストカット。朝日を見つめる横顔は、覚悟と別れと世界への挨拶が交じったような
本当に美しい微笑みでした。
こんな頬笑みが出来る出逢いに、橋本さんがこれからも巡り合う事を心から祈っています。
「愛Cute! キミに恋してる」オリジナルサウンドトラック
待ちに待っていました、このサントラを!
主題歌はヒットチャート上位曲とくらべて何ら遜色の無いクオリティーの高さ、
それに、ゲームをやった人なら絶対にED曲で泣けますよ。
いつの日か、主題歌がカラオケに入る事を信じて、このサントラを買って練習しておきましょう!
でも、ブックレットにかしわ丸さん(音楽担当の人)のコメントがないのがマイナス点かな~。
(コメント楽しみにしてたので(;_;) )
それを差し引いても、この珠玉の名曲群を買わないなんてもったいなさ過ぎる!
オススメだもん、もんっ!
aBUTTON VOL.1_恋 橋本愛/高田里穂/岡野真也 (PLUP SERIES)
本誌は「コンセプトビジュアルマガジン」とありますが、写真集の性格が強いせいか、書店では写真集のコーナーに置かれているようです。
まあ、それは置いておいて、このVOL.1では3人の女の子が取り上げられています。
橋本愛、高田里穂、岡野真也の3人です。
高田里穂さん目当てで購入したのですが・・・
ページを3人で仲良く(?)3等分しているのかと思いきや、前半、つまり半分を橋本愛さん、後半を高田里穂さんと岡野真也さんで分け合う形になっていたのが残念でした。編集サイドとしては橋本愛さんイチ押し、ということなのでしょうか?
私は橋本愛さんについては「名前は知っている」という程度で、岡野真也さんについては「男子?」(失礼!!)と思っていたくらいです。(名前で損していると思います)
良かったことは、3人とも「黒髪の」(ココ重要。)美少女であることです。今回のテーマは「恋」だそうですが、夏目漱石の文章とマッチしていて、まあ成功でしょう。インタビューもあります。
評価ですが、3人とも目当てであるなら◎、誰か1人または2人目当てなら○、後ろの2人のうちのどちらか目当てなら正直言って強くはオススメできません。
桐島、部活やめるってよ 映画パンフレット 監督 吉田大八 キャスト 神木隆之介、橋本愛、大後寿々花
朝井リョウさん原作、吉田大八監督の映画「桐島、部活やめるってよ」のパンフレットです。
映画鑑賞後に読まれる事を前提に編まれています。
内容は、イントロダクション、人物相関図、桐島をめぐる時系列解説、スタッフ紹介、
吉田監督インタビュー、朝井さん寄稿文、高橋優さんによる主題歌「陽はまた昇る」の歌詞
企画を立ち上げた若き新人プロデューサー枝見洋子さんによる制作日記、
川口敦子さん、瀬戸川宗太さんによる評論文、そして本編の各場面やオフショットで構成されています。
撮影の合間のオフショットは、小サイズながら63カット。
俳優たちの青春を捉えた愛おしいカットたちです。
神木隆之介さん、橋本愛さん、大後寿々花さん、東出昌大さんの4名は、大判での美しいスチールと共に
短いながらも痛切なメッセージが寄せられています。
この映画が、若き俳優たちの新たな人生を生み出した事が伝わってきました。
バドミントンユニフォームを着た橋本さんによるコンタクトレンズの広告カットも嬉しかったです。
添えられた橋本さんの直筆には、心を刻む音が聞こえてくるような美しさを感じます。
孤独で痛切な個人の想いを普遍へと昇華させた映画「桐島、部活やめるってよ」は
世界の豊かさが肯定された作品でした。
校内での偏在や、不穏な友人関係が描かれながらも、閉ざされていない世界でした。
たとえ明日は見えなくとも、傷つく未来へと開かれていました。
この映画ではどの生徒も断ざれていません。
お前はこういう奴なのだと断ざれていない。俺はこういう奴なのだと断じていない。
ゆえに構造を持って構成された脚本と、細やかな演出を経ても
一つの言葉、一つの目線が、そこから初めて生起するような、瑞々しい痛みを宿しています。
さらにただの造形美ではない、橋本さん特有の開かれた美の性質が、鋭く胸をえぐってきます。
そして端役が一人もいないキャスティングも見事です。
突き詰めたオーディションと、入念なワークショップによって結集した、日本の若き才能たちの
声高ではない確かな地力が、作品全体に繊細な厚みをもたらしています。
個人的には、野球部キャプテンの初登場シーンを見た時に、この映画は信用できると感じました。
決して一つの真実、一つの結末には向かわない。世界はそのように出来ていない。その事が匂ってきました。
自分が言葉にできない心情を抱えているように、相手にも密かな事情がある事が前提とされ、
饒舌な叫びを持たない魂が、深く心を伝えてきます。
前田と沢島のやり取りも 前田と宏樹のレンズ越しの邂逅も、
実果とかすみの「ありがとう」も、それが象徴された切実な光景です。
その時が来ればいつか武器が手に入ると思っていた学生時代。
今やっている事が、武器にはならぬ事を察しながらも、ただ眼前の壁をよじ登ろうとした季節。
押し出され、振り返れば、出てきた扉はすでに閉まり、目の前の扉も次々と閉じていく。
これは“弱きもの”の怨念で過去を塗り替え、「今に見ていろ」と誓った気持ちを
ノスタルジーによって晴らす映画ではありません。
だからこそ映画愛好家の所有物ではなく、今の十代こそが自分のものに出来る映画だと感じました。
若き俳優たちがこの映画を愛しているように、自分の現場で闘っている当事者たちの力になり得るはずです。
そして今なお自分が決定的な何かを見落として生きている恐さを自覚し、
押し寄せる未来への後悔を抱えた悲痛な心にも、届く映画だと思います。