ほのかの書 [DVD]
なんとも不思議な作品だ。
認知症の娘が持ってきてしまったどこかに埋められていた封筒を持ち主に返してほしいと依頼される占い師・ほのか。
突如現れる言葉を話せない書道家・ルゥイィ。
描くことを忘れてしまった画家グローク。
絡み合っていく三人の過去、傷、想い。
だがだが、その表現の仕方が実に不思議。
どう形容したらいいのだろうか。
良いも悪いも実に日本映画的。
好き嫌いも結構はっきり出る作品かと思われる。
無名・地味な俳優が大半を占め、僕が知っている俳優さんは主演の吉村涼と根岸季衣、小野寺昭のみ。
でもお芝居の上手な方ばかりで、結構楽しめました。
特に主演の吉村涼が素敵。
「渡る世間〜」の印象が強いかもしれないが、僕的には「パパは年中苦労する」の時のイメージの方が強いってな子役からのある意味ベテラン。
主人公のほのかを愛らしく、さわやかに演じており、とても好感が持てます。
こんな女優さんがもっと増えれば、日本映画はもっと楽しくなるかな、なんて思います。
認知症の娘が持ってきてしまったどこかに埋められていた封筒を持ち主に返してほしいと依頼される占い師・ほのか。
突如現れる言葉を話せない書道家・ルゥイィ。
描くことを忘れてしまった画家グローク。
絡み合っていく三人の過去、傷、想い。
だがだが、その表現の仕方が実に不思議。
どう形容したらいいのだろうか。
良いも悪いも実に日本映画的。
好き嫌いも結構はっきり出る作品かと思われる。
無名・地味な俳優が大半を占め、僕が知っている俳優さんは主演の吉村涼と根岸季衣、小野寺昭のみ。
でもお芝居の上手な方ばかりで、結構楽しめました。
特に主演の吉村涼が素敵。
「渡る世間〜」の印象が強いかもしれないが、僕的には「パパは年中苦労する」の時のイメージの方が強いってな子役からのある意味ベテラン。
主人公のほのかを愛らしく、さわやかに演じており、とても好感が持てます。
こんな女優さんがもっと増えれば、日本映画はもっと楽しくなるかな、なんて思います。
戦艦武蔵 (新潮文庫)
この作品は既に30年近く前に書かれたものであり、当時はまだ関係者が生きておられて、それらの証言を著者が丹念に集め完成されたものである。この本でノンフィクションという分野が確立したもので、当時は記録文学と呼ばれた。そして様々な文学的挫折を乗り越えた著者が到達した出発点でもある。この本を読む方はその著者の意図を汲んで欲しい。是非同時に「戦艦武蔵ノート」も読んで欲しい。著者はこの作品を発表後、一部の読者から自分の意図が間違えてとらえられていると言っている。今ちまたの本屋に平積みされている安直な作品とは、全く違うものだということを感じて欲しい。吉村昭氏は誠実で実直、そして頑固であるが、極めて冷静な目を持った方である。間違っても安易な読み誤りはしないで欲しい。
魚影の群れ [DVD]
津軽海峡のマグロ漁は、当たれば儲けもでかいが、なかなか釣れないうえ、一歩間違えば、命が無くなる・・・。そんな厳しい世界だ。
マグロを釣ることしか能がない寡黙な漁師房次郎(緒方拳)は、娘トキ子(夏目雅子)から漁業には無縁の彼氏俊一(佐藤浩市)を突然紹介され、とまどいと腹立ちから俊一を無視する。 俊一はトキ子を想うあまり、マグロ漁師になると言い出すのだが・・・・。
雄大なスケールで下北半島の厳しい自然、男と女、父と娘の生き様を描いた超大作である。
映画監督相米慎二の作品は、一風変わった演出手法や俳優に対する厳しい演技指導で知られているが、この作品はそのスケールのでかさ、出演者のレベルの高さなど、日本映画史に残る傑作と断言して良いくらいの作品だ。現代の社会情勢ではこのような超大作はもう製作できないのかな、と考えると大変つらいものがある。
冒頭部で故・夏目雅子が、下り坂を自転車で全開走行する長ーいカットや房次郎が逃げた妻(十朱幸代)を出先で発見し、どしゃ降りの雨の中を延々追いかけるシーン、夜の漁港のシーンなど、この重厚な作品でも相米節は全開である。
本来はマグロ漁のシーンは、撮影日程や安全面からリモコン式のロボットを使う予定が、数千万円の追加予算を投入することにより、撮影日程を延長し、地元漁師と漁に挑むこととなった緒方拳が、本物のマグロを釣り上げたため、これをそのまま使用するなど迫力に満ちたものと成っている。
撮影現場を陣中見舞いに来た原作者の作家吉村昭氏が、テレビで顔を知っているはずの緒方拳を見ても、潮焼けした精悍な雰囲気に変貌し、ベテラン漁師の役になりきっていたため、すれ違ってもてっきり地元の漁師だと思っていた等のエピソードも残されている。漁のシーンは併走するカメラ船から撮影しているが、カメラ船の引き波が写らないようにクレーン船をチャーターしてクレーンの先にカメラマンを乗せたゴンドラを取り付けて撮影することにより、大海原での孤独な戦いを際立たせるなど、凝りに凝っている。
なお、本作品については、1983年公開作品であるが相米監督自身をはじめ、夭逝した夏目雅子、緒方拳、レオナルド熊(北海道の魚協幹部)、三遊亭圓楽(片足を失った漁師仲間)、下川辰平(漁協の組合長)、工藤栄一(屋台のおやじ:有名な映画監督でもある)、原作者の吉村昭に至るまで、ほとんどが故人となっており、寂寥感を感じさせられる。
マグロを釣ることしか能がない寡黙な漁師房次郎(緒方拳)は、娘トキ子(夏目雅子)から漁業には無縁の彼氏俊一(佐藤浩市)を突然紹介され、とまどいと腹立ちから俊一を無視する。 俊一はトキ子を想うあまり、マグロ漁師になると言い出すのだが・・・・。
雄大なスケールで下北半島の厳しい自然、男と女、父と娘の生き様を描いた超大作である。
映画監督相米慎二の作品は、一風変わった演出手法や俳優に対する厳しい演技指導で知られているが、この作品はそのスケールのでかさ、出演者のレベルの高さなど、日本映画史に残る傑作と断言して良いくらいの作品だ。現代の社会情勢ではこのような超大作はもう製作できないのかな、と考えると大変つらいものがある。
冒頭部で故・夏目雅子が、下り坂を自転車で全開走行する長ーいカットや房次郎が逃げた妻(十朱幸代)を出先で発見し、どしゃ降りの雨の中を延々追いかけるシーン、夜の漁港のシーンなど、この重厚な作品でも相米節は全開である。
本来はマグロ漁のシーンは、撮影日程や安全面からリモコン式のロボットを使う予定が、数千万円の追加予算を投入することにより、撮影日程を延長し、地元漁師と漁に挑むこととなった緒方拳が、本物のマグロを釣り上げたため、これをそのまま使用するなど迫力に満ちたものと成っている。
撮影現場を陣中見舞いに来た原作者の作家吉村昭氏が、テレビで顔を知っているはずの緒方拳を見ても、潮焼けした精悍な雰囲気に変貌し、ベテラン漁師の役になりきっていたため、すれ違ってもてっきり地元の漁師だと思っていた等のエピソードも残されている。漁のシーンは併走するカメラ船から撮影しているが、カメラ船の引き波が写らないようにクレーン船をチャーターしてクレーンの先にカメラマンを乗せたゴンドラを取り付けて撮影することにより、大海原での孤独な戦いを際立たせるなど、凝りに凝っている。
なお、本作品については、1983年公開作品であるが相米監督自身をはじめ、夭逝した夏目雅子、緒方拳、レオナルド熊(北海道の魚協幹部)、三遊亭圓楽(片足を失った漁師仲間)、下川辰平(漁協の組合長)、工藤栄一(屋台のおやじ:有名な映画監督でもある)、原作者の吉村昭に至るまで、ほとんどが故人となっており、寂寥感を感じさせられる。
三陸海岸大津波 (文春文庫)
2011年3月11日に発生した、三陸沖大地震の直後にこの本を手にした。
予想はしていたが、ここに描かれている明治29年。昭和8年に三陸海岸を襲った津波の様と被害の様子が、
今回の被害とあまりにも酷似しており、驚きを禁じ得なかった。
歴史が繰り返されている・・・
思い出すのは、同じ吉村昭が書いた『羆嵐』。繰り返される羆の被害とその恐怖に、ついに住民はその土地を離れた。
一方、三陸海岸の人々は、この土地で生き続けることを選択した。
先祖代々の土地への愛着もあっただろう。自然と対峙する覚悟があったのかもしれない。
特に、壊滅的な被害を受けた旧・田老町の防災意識は高く、10mもの防潮堤を築き、町を挙げて防災に取り組んできた。
人々は、自然と共存するための努力を続けてきたのだ。
しかし、今回の津波は、そんな人々の想いや備えを、無惨に打ち砕いてしまった。
旧・田老町は、またもや甚大な津波の被害に遭い、三たび壊滅的な状況にある。
自然の猛威に、人間の力はなす術がないのだろうか・・・?
住み慣れた土地での生活の復興に、人々が希望を失わないことを信じている。
ただ、過去の災害時と比べて、状況には明らかな違いが生じている。それは原発の存在である。
原発の被害状況によっては、人々の希望が守られていくのか、大きな懸念を感じる。
この本を読んで最も衝撃的だったのは、このような自然災害が繰り返されることがわかっていたはずなのに、
その地に原発が作られているという事実である。
この文を記してる時点で、今回の津波による被害の全容は明らかになっていない。
しかし、過去に類を見ない規模の災害であることは間違いない。
被災されたみなさまへのお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々のご冥福を、心からお祈りしたい。
予想はしていたが、ここに描かれている明治29年。昭和8年に三陸海岸を襲った津波の様と被害の様子が、
今回の被害とあまりにも酷似しており、驚きを禁じ得なかった。
歴史が繰り返されている・・・
思い出すのは、同じ吉村昭が書いた『羆嵐』。繰り返される羆の被害とその恐怖に、ついに住民はその土地を離れた。
一方、三陸海岸の人々は、この土地で生き続けることを選択した。
先祖代々の土地への愛着もあっただろう。自然と対峙する覚悟があったのかもしれない。
特に、壊滅的な被害を受けた旧・田老町の防災意識は高く、10mもの防潮堤を築き、町を挙げて防災に取り組んできた。
人々は、自然と共存するための努力を続けてきたのだ。
しかし、今回の津波は、そんな人々の想いや備えを、無惨に打ち砕いてしまった。
旧・田老町は、またもや甚大な津波の被害に遭い、三たび壊滅的な状況にある。
自然の猛威に、人間の力はなす術がないのだろうか・・・?
住み慣れた土地での生活の復興に、人々が希望を失わないことを信じている。
ただ、過去の災害時と比べて、状況には明らかな違いが生じている。それは原発の存在である。
原発の被害状況によっては、人々の希望が守られていくのか、大きな懸念を感じる。
この本を読んで最も衝撃的だったのは、このような自然災害が繰り返されることがわかっていたはずなのに、
その地に原発が作られているという事実である。
この文を記してる時点で、今回の津波による被害の全容は明らかになっていない。
しかし、過去に類を見ない規模の災害であることは間違いない。
被災されたみなさまへのお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々のご冥福を、心からお祈りしたい。