藤澤清造短篇集 (新潮文庫)
貧しさの質も、きっと平成の今とは違います。
藤澤清造氏の作品の長所は、まず彼自身が作家としてマイナー寄りであることです。芥川、太宰や漱石といった作家たちが死後も有名になっていくのに対し、この清造氏は、彼自身を崇める西村賢太氏が有名になって初めて、平成に甦った作家です。
彼の小説には、一種の寂寥感が伴います。恥ずかしながら、私は近代小説の多くをしっかり読んだことがありませんが、清造氏の文学性は、前述の彼らとは異なるように思えます。持たざる者の、持たざるが故の苦痛というのが文章に滲んでいるのです。現代においてマイナーであることにも起因するかもしれません。
清造氏は、健康、仕事、金銭や交遊関係といった多くの点において貧しいながらも、そのまるで曇天の午後のような人生を、文字にし作品として後世に残すという偉業を遂げました。 真冬の夜、バスから降りて降雨を上着で避けつつ、一人で家路を辿りながら心配事で頭を一杯にしてみれば、小説の下地までは理解できるかもしれません。
明日があるとは判らなかった清造氏の脚は、他の文豪が机に向かっている時の腕より遥かに、文学的なものを紡いだのではないでしょうか。
藤澤清造氏の作品の長所は、まず彼自身が作家としてマイナー寄りであることです。芥川、太宰や漱石といった作家たちが死後も有名になっていくのに対し、この清造氏は、彼自身を崇める西村賢太氏が有名になって初めて、平成に甦った作家です。
彼の小説には、一種の寂寥感が伴います。恥ずかしながら、私は近代小説の多くをしっかり読んだことがありませんが、清造氏の文学性は、前述の彼らとは異なるように思えます。持たざる者の、持たざるが故の苦痛というのが文章に滲んでいるのです。現代においてマイナーであることにも起因するかもしれません。
清造氏は、健康、仕事、金銭や交遊関係といった多くの点において貧しいながらも、そのまるで曇天の午後のような人生を、文字にし作品として後世に残すという偉業を遂げました。 真冬の夜、バスから降りて降雨を上着で避けつつ、一人で家路を辿りながら心配事で頭を一杯にしてみれば、小説の下地までは理解できるかもしれません。
明日があるとは判らなかった清造氏の脚は、他の文豪が机に向かっている時の腕より遥かに、文学的なものを紡いだのではないでしょうか。
暗渠の宿 (新潮文庫)
とくに「けがれなき酒のへど」。前著「どうで死ぬ身の……」は、はじめに入っていた「一夜」が、面白いものの、淡々とした描写や説明の部分が少し入りにくかったので、本書はやや気構えして読んだのだが、すらすらっと読めて、あれっこの人、こんなに入りやすかったっけ? と意外に思いつつ一気に読了。よく「大正時代のような……」と形容される文体だが、独特のリズムが気持ちよく、語り手の思考の流れも時代錯誤なわけではなく、真剣に身につまされる人は多いと思う。なによりも自虐的なユーモアセンスが秀逸。
根津権現裏 (新潮文庫)
'1 内容について
主要なテーマは「貧困」である。
貧困とそれに遠因する(とされる)病苦、性欲、悲哀、苦悩、無知が描かれる。
著者自身の最期と重ね合わせると、どうしても涙なしには読めない箇所が1カ所ある。読んで確認してほしい。
陰のテーマは(見過ごされがちだが)「友情」であろう。
「私」と「岡田」の濃密な関係は、現代では稀有である。大正期の人間関係の「濃さ」が見物である。
他方、この小説には「孤独」の苦しみはなく、その点はある意味ほのぼのしているとさえ言える。
欲をいうと、「貧困」についての見方がもっと深いとよかった。どうも思考が浅すぎる。
また、登場人物はみな「金」と「女」という現世的利益の追求をどこまでも盲目的に肯定しているが、この点についての懐疑が(まっとうな人間であれば持ち合わせていてしかるべきなのに)この小説には全くない(ある意味開き直っている)。したがって浅薄で幼稚な印象がぬぐい去れない。
藤沢清造はドストエフスキーを十分読んでいないのではないか。
'2 表現について
「・・・のだ。」「・・・のだ。」「・・・のだ。」の連続で始まる冒頭を読んだとき、「何なんだ、この稚拙な文章は!」と感じた。たぶん著者の計算なのだろうが、効果は疑問だ。あまり表現の細部に神経を配るタイプの小説家ではない(少年期に泉鏡花を愛読した成果はあまり発揮されていない)。
その反面、全体としての勢い、切迫感は抜群で、読者をして一気に読ませる力を備えている。この点は西村賢太と共通する面がある。
他方、西村賢太と違い、比喩表現が非常に多く、そこに一種「文学的な香り」「繊細さ」が感じられる。
'3 その他
・根津近辺を散策したい気分に駆られた。
・「結句」「どうで」「慊らない」「金輪奈落」「経てて」等の西村賢太愛用語のルーツが確認できた。
主要なテーマは「貧困」である。
貧困とそれに遠因する(とされる)病苦、性欲、悲哀、苦悩、無知が描かれる。
著者自身の最期と重ね合わせると、どうしても涙なしには読めない箇所が1カ所ある。読んで確認してほしい。
陰のテーマは(見過ごされがちだが)「友情」であろう。
「私」と「岡田」の濃密な関係は、現代では稀有である。大正期の人間関係の「濃さ」が見物である。
他方、この小説には「孤独」の苦しみはなく、その点はある意味ほのぼのしているとさえ言える。
欲をいうと、「貧困」についての見方がもっと深いとよかった。どうも思考が浅すぎる。
また、登場人物はみな「金」と「女」という現世的利益の追求をどこまでも盲目的に肯定しているが、この点についての懐疑が(まっとうな人間であれば持ち合わせていてしかるべきなのに)この小説には全くない(ある意味開き直っている)。したがって浅薄で幼稚な印象がぬぐい去れない。
藤沢清造はドストエフスキーを十分読んでいないのではないか。
'2 表現について
「・・・のだ。」「・・・のだ。」「・・・のだ。」の連続で始まる冒頭を読んだとき、「何なんだ、この稚拙な文章は!」と感じた。たぶん著者の計算なのだろうが、効果は疑問だ。あまり表現の細部に神経を配るタイプの小説家ではない(少年期に泉鏡花を愛読した成果はあまり発揮されていない)。
その反面、全体としての勢い、切迫感は抜群で、読者をして一気に読ませる力を備えている。この点は西村賢太と共通する面がある。
他方、西村賢太と違い、比喩表現が非常に多く、そこに一種「文学的な香り」「繊細さ」が感じられる。
'3 その他
・根津近辺を散策したい気分に駆られた。
・「結句」「どうで」「慊らない」「金輪奈落」「経てて」等の西村賢太愛用語のルーツが確認できた。