ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌
佐村河内守という稀代のペテン師と、天才と賞賛されたほどの音楽的才能を持ちながら佐村河内のゴーストライターを約17年に渡って
務めてきた新垣隆。この奇妙な2人の「共犯関係」と、一連の騒動の全貌を明らかにした著作である。まず、佐村河内という男のあまりに
異様で奇怪な性格に呆然とさせられる。大法螺吹きで強烈な上昇志向の持ち主で、平気で嘘がつける男。自分を守る為なら土下座も泣き
落としも平然と行う一方、利用価値がないとみなした人間へは冷淡そのものの対応をとる。恫喝と自己演出と自己プロモートに関しては
天才的な才能があり、周囲の人々を巻き込みながら壮大な虚像を作りあげていった。一方の新垣隆は著者神山氏曰く「音楽バカ」で、
音楽さえできれば例え貧しくとも幸せだという無欲な才人。佐村河内は新垣のこうした才能と性格に目をつけて接近、ゴーストライティン
グを依頼するようになる。作品が発表できればゴーストライターでも幸せだと考えていた新垣だが、結局は佐村河内に巧妙に絡め取られ、
あやつり人形になっていく。その過程の描写はとてもスリリングだ。
佐村河内を語る上でもう一人欠かせない登場人物なのが右手が義手の少女ヴァイオリニスト”みっくん”である。佐村河内は”みっくん”の存
在に目を付け、利用できるだけ利用し、利用価値がなくなったと見るとあっさりと捨てた。だが佐村河内にとって誤算だったのは、この”みっ
くん”への傲慢な対応に対して新垣が激怒したことだったろう。「大人は嘘つきだ」という”みっくん”の悲痛な叫びに新垣は全てを告白するこ
とを決意する。「共犯者」としてのケジメをつけるために。こうして”現代のベートーヴェン”の虚像はもろくも崩壊していった。
「共犯者」という観点で言えば、新垣よりはるかに悪質なのがNHKである。第11章『疑義まみれのNHKスペシャル』(222ページ〜 )にはそ
の一部始終が詳細に記述されているが、NHKスタッフの佐村河内への無批判な迎合ぶりはあまりに情けなく、ジャーナリズムの魂を全く喪
失していたとしか言いようがない。神山氏も「NHKは佐村河内という悪魔に、完全に手玉にとられ弄ばれたとしか言いようがない。ジャーナリ
ズムの屈辱といっていい。」(233ページ)と手厳しく批判している。著者の神山氏自身も佐村河内に取材し一時はメールのやりとりをする間
柄であった。「もちろん私も、報道の受け手からしたら、佐村河内のつくった虚構を強化してしまった「共犯者」と言われても仕方ない。」(17
ページ)と自身の責任も認めている。この本は神山氏にとって新垣氏同様、「共犯者」としてのケジメをつけるためのものであろう。
皮肉な話だが、この騒動によって新垣隆の音楽的才能は認められ、作曲や出演のオファーが殺到する売れっ子音楽家となった。元々優れた
才能の持ち主だったので当然であろう。また、佐村河内に傷つけられた”みっくん”も諦めずにヴァイオリンを続けている。一方佐村河内はプロ
モーション会社から14公演中止の賠償を求める訴訟を起こされ、今までの「ツケ」を払わされることになりそうだが、文字通り自業自得である。
久々に読み応えのあるルポルタージュだった。
務めてきた新垣隆。この奇妙な2人の「共犯関係」と、一連の騒動の全貌を明らかにした著作である。まず、佐村河内という男のあまりに
異様で奇怪な性格に呆然とさせられる。大法螺吹きで強烈な上昇志向の持ち主で、平気で嘘がつける男。自分を守る為なら土下座も泣き
落としも平然と行う一方、利用価値がないとみなした人間へは冷淡そのものの対応をとる。恫喝と自己演出と自己プロモートに関しては
天才的な才能があり、周囲の人々を巻き込みながら壮大な虚像を作りあげていった。一方の新垣隆は著者神山氏曰く「音楽バカ」で、
音楽さえできれば例え貧しくとも幸せだという無欲な才人。佐村河内は新垣のこうした才能と性格に目をつけて接近、ゴーストライティン
グを依頼するようになる。作品が発表できればゴーストライターでも幸せだと考えていた新垣だが、結局は佐村河内に巧妙に絡め取られ、
あやつり人形になっていく。その過程の描写はとてもスリリングだ。
佐村河内を語る上でもう一人欠かせない登場人物なのが右手が義手の少女ヴァイオリニスト”みっくん”である。佐村河内は”みっくん”の存
在に目を付け、利用できるだけ利用し、利用価値がなくなったと見るとあっさりと捨てた。だが佐村河内にとって誤算だったのは、この”みっ
くん”への傲慢な対応に対して新垣が激怒したことだったろう。「大人は嘘つきだ」という”みっくん”の悲痛な叫びに新垣は全てを告白するこ
とを決意する。「共犯者」としてのケジメをつけるために。こうして”現代のベートーヴェン”の虚像はもろくも崩壊していった。
「共犯者」という観点で言えば、新垣よりはるかに悪質なのがNHKである。第11章『疑義まみれのNHKスペシャル』(222ページ〜 )にはそ
の一部始終が詳細に記述されているが、NHKスタッフの佐村河内への無批判な迎合ぶりはあまりに情けなく、ジャーナリズムの魂を全く喪
失していたとしか言いようがない。神山氏も「NHKは佐村河内という悪魔に、完全に手玉にとられ弄ばれたとしか言いようがない。ジャーナリ
ズムの屈辱といっていい。」(233ページ)と手厳しく批判している。著者の神山氏自身も佐村河内に取材し一時はメールのやりとりをする間
柄であった。「もちろん私も、報道の受け手からしたら、佐村河内のつくった虚構を強化してしまった「共犯者」と言われても仕方ない。」(17
ページ)と自身の責任も認めている。この本は神山氏にとって新垣氏同様、「共犯者」としてのケジメをつけるためのものであろう。
皮肉な話だが、この騒動によって新垣隆の音楽的才能は認められ、作曲や出演のオファーが殺到する売れっ子音楽家となった。元々優れた
才能の持ち主だったので当然であろう。また、佐村河内に傷つけられた”みっくん”も諦めずにヴァイオリンを続けている。一方佐村河内はプロ
モーション会社から14公演中止の賠償を求める訴訟を起こされ、今までの「ツケ」を払わされることになりそうだが、文字通り自業自得である。
久々に読み応えのあるルポルタージュだった。
「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か―新潮45eBooklet
元々、雑誌の記事をkindle本にしたもので、内容は短く、5分で読めます。
マーラーの曲に似ているなど、音楽家としての鋭い批評をしています。
今回の騒動前に、書いた文章なので、評価できると思います。
マーラーの曲に似ているなど、音楽家としての鋭い批評をしています。
今回の騒動前に、書いた文章なので、評価できると思います。
糸
最近、ニュース等で扱われなくなった「佐村河内守」さんの作品の実際の作曲者ではないか、として騒がれた「新垣隆」さんの曲が収録されているので、購入し聴いてみた。
「糸」というタイトルだが、三弦、琴、笙、太棹と打物という和楽器で現代音楽を演奏してきたグループの名前なのだそうだ。
このCDは、グループの旗揚げコンサートのライブ録音ですので、観客の笑い声も聴けます
このCDは、高橋悠治が企画、構成し、一弦琴で演奏に参加するとともに、収録曲五曲の内、1曲を提供している。
さて和楽器による伝統的な演奏(特に雅楽)には、所謂「序破急」という序々に速度が速く、音量が高まりクライマックスに至るという決まりごとが、あります。高橋悠治の他の4曲は、それぞれ若い作曲家(新垣さんも含む)による作品です。
和楽器による現代音楽と言えば、1966年に武満徹が作曲した、琵琶と尺八(元々、日本音楽には、この組み合わせは無かったそうである)による「エクリプス」が最初ではないか、と思う。「エクリプス」では、上記の「序破急」を備えていた。
翻って、この五曲には、「序破急」=序々にクライマックスに至る、という規定は、ありません。曲の中で自由に変化させています。全く音の無い部分もあります。ブルックナー休止ではなく(当然ですね)、ライブなので、演奏者が移動するなどの状況があるのではないか?と思います。現代音楽は、演劇と不可分になってきており、演奏会場で体験しないと、理解できない瞬間があります。例えば、ブーレーズ作曲の「ドメーヌ」は一人のクラリネット奏者が舞台が暗転している間に移動し、明るくなると、その場所で演奏を続ける、という作品ですが、2チャンネルのステレオで再現するのは、困難です。
この演奏は、当然ながら日本音階に囚われず、無調に近い(調律をずらしてある)部分があります。
また、曲によっては、全員が詩を唱える(謡ではない)が、それも当然ながら無調であり、「シュプレッヒ・シュトゥンメ」に近い。
最初に聴いた時は、通常の音量で聴いたのですが、「変化の少ない曲」が多い、と思いました。再度、音量を上げて聴くと、其々の良さが解ってきました。古い規則には縛られていない自由さがあるのです。小さな音から大きな音まで聴ける音量にして、解りました。
そして、打物の腹に響くような音は、爽快であり、音量を大きくして聴ける環境ならば、素晴らしい録音と言えます。所謂「S/N比」が高いのです。
現代音楽が嫌いな人でも、オーディオ・マニアには、お勧めできます。
なお、あの「鬼武者」というゲームのサントラを交響組曲として指揮した「新垣」さんの曲は、「鬼武者」のNHKの大河ドラマのような曲かなあ?と思って聴いたが、当然、楽器構成が異なるので、全く方向の異なる曲となっています。
「糸」というタイトルだが、三弦、琴、笙、太棹と打物という和楽器で現代音楽を演奏してきたグループの名前なのだそうだ。
このCDは、グループの旗揚げコンサートのライブ録音ですので、観客の笑い声も聴けます
このCDは、高橋悠治が企画、構成し、一弦琴で演奏に参加するとともに、収録曲五曲の内、1曲を提供している。
さて和楽器による伝統的な演奏(特に雅楽)には、所謂「序破急」という序々に速度が速く、音量が高まりクライマックスに至るという決まりごとが、あります。高橋悠治の他の4曲は、それぞれ若い作曲家(新垣さんも含む)による作品です。
和楽器による現代音楽と言えば、1966年に武満徹が作曲した、琵琶と尺八(元々、日本音楽には、この組み合わせは無かったそうである)による「エクリプス」が最初ではないか、と思う。「エクリプス」では、上記の「序破急」を備えていた。
翻って、この五曲には、「序破急」=序々にクライマックスに至る、という規定は、ありません。曲の中で自由に変化させています。全く音の無い部分もあります。ブルックナー休止ではなく(当然ですね)、ライブなので、演奏者が移動するなどの状況があるのではないか?と思います。現代音楽は、演劇と不可分になってきており、演奏会場で体験しないと、理解できない瞬間があります。例えば、ブーレーズ作曲の「ドメーヌ」は一人のクラリネット奏者が舞台が暗転している間に移動し、明るくなると、その場所で演奏を続ける、という作品ですが、2チャンネルのステレオで再現するのは、困難です。
この演奏は、当然ながら日本音階に囚われず、無調に近い(調律をずらしてある)部分があります。
また、曲によっては、全員が詩を唱える(謡ではない)が、それも当然ながら無調であり、「シュプレッヒ・シュトゥンメ」に近い。
最初に聴いた時は、通常の音量で聴いたのですが、「変化の少ない曲」が多い、と思いました。再度、音量を上げて聴くと、其々の良さが解ってきました。古い規則には縛られていない自由さがあるのです。小さな音から大きな音まで聴ける音量にして、解りました。
そして、打物の腹に響くような音は、爽快であり、音量を大きくして聴ける環境ならば、素晴らしい録音と言えます。所謂「S/N比」が高いのです。
現代音楽が嫌いな人でも、オーディオ・マニアには、お勧めできます。
なお、あの「鬼武者」というゲームのサントラを交響組曲として指揮した「新垣」さんの曲は、「鬼武者」のNHKの大河ドラマのような曲かなあ?と思って聴いたが、当然、楽器構成が異なるので、全く方向の異なる曲となっています。