デビュー30周年記念アルバム
やさしい声には心やすまる思いがいたします。2人の足跡もよくわかり、ファンにとっては貴重な1枚と言えると思います。「めぐり逢い」という曲は、アンドレ・ギャニオンのピアノ曲を大らかに歌いあげていて、静かな場所でいつまでも聴いていたい、お気に入りの曲です。このアルバムにめぐり逢う事ができて、本当に良かったと思います。
暫く留守にしておりまして、評価が遅れた事、申し訳ありませんでした。
暫く留守にしておりまして、評価が遅れた事、申し訳ありませんでした。
来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題 (幻冬舎新書)
実生活に必要な公権力のほとんどは行政が決めている。しかし、住民は行政の決定プロセスに関与する権利がない。それを「民主主義」と呼べるのか、という疑問から本書は始まる。
住民は立法権である議会に代表を送ることはできる。だが、議会はルールを作るだけで、ルールに基づく政策決定は行政が行う。今回の道路も行政が決めた都市計画にもとづいている。住民の政治参加には、議会改革も必要かもしれない。「しかし、行政の決定プロセスに関与できる仕組みを加えることが必要」と著者は主張する。その1つが、住民投票で意志を行政に伝えることだ。住民投票を求める署名をいくら集めても、議会で否決されれば投票は実施されない。現に過去の多くの住民投票請求は議会で否決された。これは、議会による民主主義の否定ともいえる。一定数を超えれば、議会の意向関係なく住民投票を必ず実施するという規定が必要だ。また、ワークショップ、審議会の透明化など行政のプロセスに住民が議論する段階を設けることを著者は訴える。
私が面白いと感じたのは、「議会お飾り論」の肯定。行政が全てを決め、議会は承認するだけの儀式だという批判は、官僚制の進展に伴い、ずっと言われ続けている。だが、著者は「それでよい」という。議会がお墨付きを与える「儀式」が、行政の決定に正統性を与えている。政治における「決定」はデリケートで、議会が決定するからみんな納得する。そのお墨付き機能を持つ議会は政治制度の中核であり続ける、としている。
ここからは余談。著者の政治思想には納得したが、本書では、その実践として行われた都道328号建設反対運動がもう一つのテーマになっている。328は東京都を南北にぶち抜く道路だが、著者は「雑木林が切られるから反対」という。ところで、小平市のほか、国分寺、西東京に在住経験がある私は、建設すべきだと思う。著者は小平市民だから、「都の役人が勝手に線を引いた」という気持ちが強い。しかし、多摩北部は人口の割に道路、特に南北交通が脆弱で、328に限らないが南北交通を充実してほしいというのは、多くのドライバー住民の実感ではある。国分寺から東村山までの7、8キロを日中移動する場合、少なくとも30分はかかった。本書にも出る府中街道が代用として使われているが、地域の生活道路、津田塾の通学路でもあり飛ばせる道路ではない。通過交通用の道路はほしい。
加えて、都道328号の当該部分前後は大半完成している。ほかの人は我慢して土地を譲った。サンクコストじゃいというかも知れないが、「小平市民の反対で道はつながりませんでした」では、「公共の利益のために」土地を譲った他市の人の想いはどうなるのか。府中市の328沿いには、328完成を見越して小児科に強い多摩地区最大級の救急病院もある。道がつながらなかったら、小平南部の救急患者はどうするの、とか。一方で、小平市は東西に広く、私もそうだったが、例えば東部・花小金井地区の住民は、小平中央公園の雑木林など知りもしない。
著者の論として、かなり問題があると思うのはここだ。著者は「決定に関与すべき」利害関係人として自治体住民しか想定していないように見えるが、道路による便益を受ける人は広範囲に及ぶ。かたや小平市内でも、雑木林など知ったことではない人も相当数いる。現にこの住民投票も7割が棄権した。当該自治体住民というだけで、知りもしない雑木林の存廃について、投票権を与えられる一方で、よその市民だからという理由で、商用・通学など、自分たちの利用する空間に関する決定権を与えられないというのは不平等だ。著者は「住民なら外国人にも」というにもかかわらずだ。ぜひ、他市のドライバーなり、救急患者予備群、乳幼児の親を議論に加えてほしい。
個人的な考えだが、生命やコミュニティ、環境に重大な影響を与えかねない原発、処分場、ダム、軍事施設の設置については、住民が意見表明する機会があってもいい。でも、道路はどうだろうか。どこか一自治体でも反対したら長大な道路でもつながらない、ということが一般化されたら……うーん。そこまで住民の権利が尊重されるのも、と。古い考えかもしれないが。
ともあれ、一道路の活動から、政治、権力の本質、住民の自己決定権を考えようというスタイル、「主権者であるようで実はそうではないかも」という議論は読ませる。政治上のあるべき「決定」とは何かを考え直す、いい本だと感じた。巻末の住民投票の一覧は労作だが、富山市の「桐朋学院」は「学園」か。
住民は立法権である議会に代表を送ることはできる。だが、議会はルールを作るだけで、ルールに基づく政策決定は行政が行う。今回の道路も行政が決めた都市計画にもとづいている。住民の政治参加には、議会改革も必要かもしれない。「しかし、行政の決定プロセスに関与できる仕組みを加えることが必要」と著者は主張する。その1つが、住民投票で意志を行政に伝えることだ。住民投票を求める署名をいくら集めても、議会で否決されれば投票は実施されない。現に過去の多くの住民投票請求は議会で否決された。これは、議会による民主主義の否定ともいえる。一定数を超えれば、議会の意向関係なく住民投票を必ず実施するという規定が必要だ。また、ワークショップ、審議会の透明化など行政のプロセスに住民が議論する段階を設けることを著者は訴える。
私が面白いと感じたのは、「議会お飾り論」の肯定。行政が全てを決め、議会は承認するだけの儀式だという批判は、官僚制の進展に伴い、ずっと言われ続けている。だが、著者は「それでよい」という。議会がお墨付きを与える「儀式」が、行政の決定に正統性を与えている。政治における「決定」はデリケートで、議会が決定するからみんな納得する。そのお墨付き機能を持つ議会は政治制度の中核であり続ける、としている。
ここからは余談。著者の政治思想には納得したが、本書では、その実践として行われた都道328号建設反対運動がもう一つのテーマになっている。328は東京都を南北にぶち抜く道路だが、著者は「雑木林が切られるから反対」という。ところで、小平市のほか、国分寺、西東京に在住経験がある私は、建設すべきだと思う。著者は小平市民だから、「都の役人が勝手に線を引いた」という気持ちが強い。しかし、多摩北部は人口の割に道路、特に南北交通が脆弱で、328に限らないが南北交通を充実してほしいというのは、多くのドライバー住民の実感ではある。国分寺から東村山までの7、8キロを日中移動する場合、少なくとも30分はかかった。本書にも出る府中街道が代用として使われているが、地域の生活道路、津田塾の通学路でもあり飛ばせる道路ではない。通過交通用の道路はほしい。
加えて、都道328号の当該部分前後は大半完成している。ほかの人は我慢して土地を譲った。サンクコストじゃいというかも知れないが、「小平市民の反対で道はつながりませんでした」では、「公共の利益のために」土地を譲った他市の人の想いはどうなるのか。府中市の328沿いには、328完成を見越して小児科に強い多摩地区最大級の救急病院もある。道がつながらなかったら、小平南部の救急患者はどうするの、とか。一方で、小平市は東西に広く、私もそうだったが、例えば東部・花小金井地区の住民は、小平中央公園の雑木林など知りもしない。
著者の論として、かなり問題があると思うのはここだ。著者は「決定に関与すべき」利害関係人として自治体住民しか想定していないように見えるが、道路による便益を受ける人は広範囲に及ぶ。かたや小平市内でも、雑木林など知ったことではない人も相当数いる。現にこの住民投票も7割が棄権した。当該自治体住民というだけで、知りもしない雑木林の存廃について、投票権を与えられる一方で、よその市民だからという理由で、商用・通学など、自分たちの利用する空間に関する決定権を与えられないというのは不平等だ。著者は「住民なら外国人にも」というにもかかわらずだ。ぜひ、他市のドライバーなり、救急患者予備群、乳幼児の親を議論に加えてほしい。
個人的な考えだが、生命やコミュニティ、環境に重大な影響を与えかねない原発、処分場、ダム、軍事施設の設置については、住民が意見表明する機会があってもいい。でも、道路はどうだろうか。どこか一自治体でも反対したら長大な道路でもつながらない、ということが一般化されたら……うーん。そこまで住民の権利が尊重されるのも、と。古い考えかもしれないが。
ともあれ、一道路の活動から、政治、権力の本質、住民の自己決定権を考えようというスタイル、「主権者であるようで実はそうではないかも」という議論は読ませる。政治上のあるべき「決定」とは何かを考え直す、いい本だと感じた。巻末の住民投票の一覧は労作だが、富山市の「桐朋学院」は「学園」か。
都市地図 東京都 小平市 (地図・マップ|昭文社/マップル)
どこに住んでも必ず買うシリーズです。町を把握するのに裏切られることがありません。道路の立体交差でどちらが上でどちらが下か、また住所による位置の把握など、かなり細かい部分まで情報を得ることができます。