力(フォース)を使え!
まずは、表紙とタイトルに引きつけられました!そして、秋山眞人さんと田口ランディさんの対談本ということもあり購入を決定!本文では、秋山眞人さんが超能力少年になったか幼少期のころのお話が面白い。幼少期や少年期の秋山の写真が載っていたりして誰も知らない秋山さんの秘密を知ったような気持ちになりました。
第2章冒頭の震える瞑想の部分は、秋山眞人さんと田口ランディさんは実際どんな格好してたんだろうと思うと可笑しくて笑ってしまいました。でもすごく真面目に瞑想のやり方を紹介していてくれる。自分もやってみました笑
18年来の友人というだけあって、田口ランディさんだったから、長年精神世界を探求研究し続けている秋山眞人さんを独特の面白い切り口で解剖し、精神世界とはなにか?をわかりやすく引き出せたんだなぁと思いました。
あと本文に、精神世界とはなにか?を対談している部分がすごく素敵で本書のなかでも1番好きな部分。田口ランディさんも実に美しい表現と書かれていて、私も同感でした。何度も読み返したくなる!
そして、神秘は沈黙に宿っているという下りも好きなところです。
この書籍は、面白くそしてすごく真面目に精神世界について書かれている一冊なので、どんな人でも読みやすくわかりやすい精神世界の入門書だと思います。
字も大きくて行間も広いし、活字が苦手な人にも読みやすいと思いました!
第2章冒頭の震える瞑想の部分は、秋山眞人さんと田口ランディさんは実際どんな格好してたんだろうと思うと可笑しくて笑ってしまいました。でもすごく真面目に瞑想のやり方を紹介していてくれる。自分もやってみました笑
18年来の友人というだけあって、田口ランディさんだったから、長年精神世界を探求研究し続けている秋山眞人さんを独特の面白い切り口で解剖し、精神世界とはなにか?をわかりやすく引き出せたんだなぁと思いました。
あと本文に、精神世界とはなにか?を対談している部分がすごく素敵で本書のなかでも1番好きな部分。田口ランディさんも実に美しい表現と書かれていて、私も同感でした。何度も読み返したくなる!
そして、神秘は沈黙に宿っているという下りも好きなところです。
この書籍は、面白くそしてすごく真面目に精神世界について書かれている一冊なので、どんな人でも読みやすくわかりやすい精神世界の入門書だと思います。
字も大きくて行間も広いし、活字が苦手な人にも読みやすいと思いました!
サンカーラ―この世の断片をたぐり寄せて
田口ランディという作家は、以前から知っていたし感心して読んだ。
デヴュー作のコンセントには衝撃を受けた。転移や逆転移はよくおこる現象だったが、
そういう名前がついている現象だとは当時は知らなかった。
さて、その田口ランディが震災後の2011年12月から2012年7月まで連載し、
終章を加えて2012年10月に書いた、サンカーラという作品をようやく読み終えた。
先ず、この一言を書いておく。「読むべきだ。」
彼女の壮絶な半生を振り返る内容になっているが、
震災をきっかけに、彼女自身が自分の体験を経験に再構成していく様が描かれている。
しかもその目論見は、はっきりいって道半ばなのだ。
しかし、それが非常にいい。彼女自身が認める、体裁を取り繕う部分がすっぽりと落ちて
自然体の田口ランディが立ち上がっている。
今回、ここには、印象に残った言葉をいくつか紹介しておきたい。
「ほんとうに、なにかすごいことが起こったとき、私たちはいつも受け身だ。
その運命を受け入れるしかない。」
「わたしは、死刑制度には反対です。」「ほう!それはなぜ?」(略)
「被害者に対する憐憫が悪い感情だとは思わない。でも、その個人的感情と、
法制度を分けて考える知性が……必要とされていると思う。」
2011年秋、イタリアで日本の状況を尋ねられて。
「…わたしはいま、つらいです。苦しいのです。イタリアにやってきて、わたしは痛感しました。
わたしたちが失ったものを。日本を離れて初めて、いったい自分たちがなにを失ったのか、
しみじみとわかったのです。
この街はとてもきれいです。歩いている人たちは、和やかに会話をして
みんな幸せそうに見えました。おいしい食事をして、家族や友達と一緒に過ごす。(略)
イタリアの生活は、わたしが子どもの頃の日本の暮らしを思い出させました。
子どもの頃、わたしは野の花の蜜を吸い、雪を食べて遊んでいたんですよ。
いま、わたしの住んでいる土地から放射性物質が検出され、お茶が出荷停止になりました。
日本では皆がなにを食べたら安全なのかと疑心暗鬼になり、スーパーの飲料水は
売り切れの状態です。(略)福島の子どもたちは、屋外では遊べません。福島に住んでいる
中学生の女の子たちは、放射線を浴びたからもう自分たちは結婚することも、
子どもを生むこともできない、そういうのです。それが現実です。わたしは、いま皆さんが
本当に羨ましいです。この国のあたりまえの生活を、わたしたちは失ってしまったんです…」
「ピナ・パウシュもまた老賢者のような存在で、彼女は若いダンサーたちに厳しく問い続けるのだ。
『あなたは、誰ですか?』と。
(略)いったい誰に向けてこの問いは発せられたのか。私なのか、
それとも隣に座っている人なのか。互いに顔を見合わせる。その時、問われた者として
立ち上がることが出来るかどうか…、それが生きるということかもしれない。
名乗り出なければならないのだ。自らの意思で。(略)
それでも、自分であるためには一歩前に出るしかないのだ。一歩ずつ、一ミリずつ、
退かずに前に出るのだ。それしかない。それしか、自分が誰かを知る方法はない。
そこを諦めたら、もう誰でもない私になってしまう。(略)人間であることを、楽しめ。」
「石牟礼道子さんは『もだえ神』という神さまのことを書いていた。
『もだえ神』とは苦しむ人の傍らで一緒にもだえる神であるという。
彼女は『もだえ神』として水俣を書いたのだ…とも。」
(これは、聖書に書かれた神の姿と一緒だ。その苦しみを具に見、その叫びを聞いたと
出エジプト記に記され、聴こえない人のもとで、天を仰いでため息をついたイエスと同じだ)
「自然界に感情をぶつけるわけですよ。だって生身の人間にはそこまで言えませんからね。
(略)だからね、言葉が通じないものに投げかけるんです。草木や空を飛んでいる
鳥であったり、海であったり、さかなであったりね。」
「自然は、…答えてくれるんですか?」
「答えは教えてくれないです。でも、慰めてくれるというか、やわらげてくれる。
いっしょに案じている。自然のほうからはけっして拒絶しない。」
「この俺にしてそういうことを思わせる自然は、ねえ、たいしたものだとおもいませんか。
ほれぼれすることがある。夕方の船の上で網をあげるまで夕陽をみながら
ゆっくりしている時間がある。凪ぎのなかにいだかれているあのときが、
なんとも、さわせな時間でねえ。日本政府なんて俺には関係ない。
なくてもいっちょこまらん。深い次元で対話しているんですわ、自然と。
(略)そういうのってのはやっぱり好かれちょるんじゃあないですか、この空間から。
好かれちょるってのは惚れられちょつってことですから。にんげんが大自然から
惚れられちょる。なにものにもかえがたい、かけがえのないもの、無償の価値って
いうんですかね、そういうものがあるんです。(略)この俺がね、自然に惚れられちょる、
すごいことだとおもいませんか…」「あんたも、この森に、惚れられちょるんですね。」
「兄の死は、私の内的な変容を促した。内的な変化ではない。変容だ。
土台ごと、根こそぎ、ひっくり返ったのだ。人生は地続きで変化するものだが、
あの時は違った。昨日と今日は別の場所だった。世界は同じままなのに、
私に見える風景が転じてしまった。この体験は稀有なものだった。
それまで信じていたものがあっさりと覆った。全てが思い込みだったという衝撃。
(略)『お兄ちゃんが、好きだ。』そのひと言でよかったのだ。」
「最初は頭で理解しようと必死だった。勉強すれば仏教が理解できると思っていた。
だが、次第にそれは間違いであったことに気づいていく。知識は無用ではないが、
私が仏教を知るためには役に立たなかった。
仏教は、前提として、知ることが出来ない。仏教は生きることしかできない。
仏教は体験を通して生きることのプロセスであり知識ではない。」
(これは、僕のキリスト教観と同じだ。イエスはキリスト教というものを知らない。
彼自身はユダヤ教徒だ。キリスト教の本質とは学ぶことが出来ないと思っている。
そのことを僕はキリスト教ではなく、キリスト道と言う方が近い、と表現する。
キリスト教の本質とはイエスの弟子でありたいと願い、そのように生きることに
他ならないからだ。)
この大切な本は、田口ランディの心の旅を綴った旅行記だ。
そして読了した者は、自分自身の心の旅に出てしまったことに気付くのだ。
田口ランディの文章は、そのように僕たちを誘う。
あなたは、この問いに答えられるか?
「あなたは、誰ですか?」
デヴュー作のコンセントには衝撃を受けた。転移や逆転移はよくおこる現象だったが、
そういう名前がついている現象だとは当時は知らなかった。
さて、その田口ランディが震災後の2011年12月から2012年7月まで連載し、
終章を加えて2012年10月に書いた、サンカーラという作品をようやく読み終えた。
先ず、この一言を書いておく。「読むべきだ。」
彼女の壮絶な半生を振り返る内容になっているが、
震災をきっかけに、彼女自身が自分の体験を経験に再構成していく様が描かれている。
しかもその目論見は、はっきりいって道半ばなのだ。
しかし、それが非常にいい。彼女自身が認める、体裁を取り繕う部分がすっぽりと落ちて
自然体の田口ランディが立ち上がっている。
今回、ここには、印象に残った言葉をいくつか紹介しておきたい。
「ほんとうに、なにかすごいことが起こったとき、私たちはいつも受け身だ。
その運命を受け入れるしかない。」
「わたしは、死刑制度には反対です。」「ほう!それはなぜ?」(略)
「被害者に対する憐憫が悪い感情だとは思わない。でも、その個人的感情と、
法制度を分けて考える知性が……必要とされていると思う。」
2011年秋、イタリアで日本の状況を尋ねられて。
「…わたしはいま、つらいです。苦しいのです。イタリアにやってきて、わたしは痛感しました。
わたしたちが失ったものを。日本を離れて初めて、いったい自分たちがなにを失ったのか、
しみじみとわかったのです。
この街はとてもきれいです。歩いている人たちは、和やかに会話をして
みんな幸せそうに見えました。おいしい食事をして、家族や友達と一緒に過ごす。(略)
イタリアの生活は、わたしが子どもの頃の日本の暮らしを思い出させました。
子どもの頃、わたしは野の花の蜜を吸い、雪を食べて遊んでいたんですよ。
いま、わたしの住んでいる土地から放射性物質が検出され、お茶が出荷停止になりました。
日本では皆がなにを食べたら安全なのかと疑心暗鬼になり、スーパーの飲料水は
売り切れの状態です。(略)福島の子どもたちは、屋外では遊べません。福島に住んでいる
中学生の女の子たちは、放射線を浴びたからもう自分たちは結婚することも、
子どもを生むこともできない、そういうのです。それが現実です。わたしは、いま皆さんが
本当に羨ましいです。この国のあたりまえの生活を、わたしたちは失ってしまったんです…」
「ピナ・パウシュもまた老賢者のような存在で、彼女は若いダンサーたちに厳しく問い続けるのだ。
『あなたは、誰ですか?』と。
(略)いったい誰に向けてこの問いは発せられたのか。私なのか、
それとも隣に座っている人なのか。互いに顔を見合わせる。その時、問われた者として
立ち上がることが出来るかどうか…、それが生きるということかもしれない。
名乗り出なければならないのだ。自らの意思で。(略)
それでも、自分であるためには一歩前に出るしかないのだ。一歩ずつ、一ミリずつ、
退かずに前に出るのだ。それしかない。それしか、自分が誰かを知る方法はない。
そこを諦めたら、もう誰でもない私になってしまう。(略)人間であることを、楽しめ。」
「石牟礼道子さんは『もだえ神』という神さまのことを書いていた。
『もだえ神』とは苦しむ人の傍らで一緒にもだえる神であるという。
彼女は『もだえ神』として水俣を書いたのだ…とも。」
(これは、聖書に書かれた神の姿と一緒だ。その苦しみを具に見、その叫びを聞いたと
出エジプト記に記され、聴こえない人のもとで、天を仰いでため息をついたイエスと同じだ)
「自然界に感情をぶつけるわけですよ。だって生身の人間にはそこまで言えませんからね。
(略)だからね、言葉が通じないものに投げかけるんです。草木や空を飛んでいる
鳥であったり、海であったり、さかなであったりね。」
「自然は、…答えてくれるんですか?」
「答えは教えてくれないです。でも、慰めてくれるというか、やわらげてくれる。
いっしょに案じている。自然のほうからはけっして拒絶しない。」
「この俺にしてそういうことを思わせる自然は、ねえ、たいしたものだとおもいませんか。
ほれぼれすることがある。夕方の船の上で網をあげるまで夕陽をみながら
ゆっくりしている時間がある。凪ぎのなかにいだかれているあのときが、
なんとも、さわせな時間でねえ。日本政府なんて俺には関係ない。
なくてもいっちょこまらん。深い次元で対話しているんですわ、自然と。
(略)そういうのってのはやっぱり好かれちょるんじゃあないですか、この空間から。
好かれちょるってのは惚れられちょつってことですから。にんげんが大自然から
惚れられちょる。なにものにもかえがたい、かけがえのないもの、無償の価値って
いうんですかね、そういうものがあるんです。(略)この俺がね、自然に惚れられちょる、
すごいことだとおもいませんか…」「あんたも、この森に、惚れられちょるんですね。」
「兄の死は、私の内的な変容を促した。内的な変化ではない。変容だ。
土台ごと、根こそぎ、ひっくり返ったのだ。人生は地続きで変化するものだが、
あの時は違った。昨日と今日は別の場所だった。世界は同じままなのに、
私に見える風景が転じてしまった。この体験は稀有なものだった。
それまで信じていたものがあっさりと覆った。全てが思い込みだったという衝撃。
(略)『お兄ちゃんが、好きだ。』そのひと言でよかったのだ。」
「最初は頭で理解しようと必死だった。勉強すれば仏教が理解できると思っていた。
だが、次第にそれは間違いであったことに気づいていく。知識は無用ではないが、
私が仏教を知るためには役に立たなかった。
仏教は、前提として、知ることが出来ない。仏教は生きることしかできない。
仏教は体験を通して生きることのプロセスであり知識ではない。」
(これは、僕のキリスト教観と同じだ。イエスはキリスト教というものを知らない。
彼自身はユダヤ教徒だ。キリスト教の本質とは学ぶことが出来ないと思っている。
そのことを僕はキリスト教ではなく、キリスト道と言う方が近い、と表現する。
キリスト教の本質とはイエスの弟子でありたいと願い、そのように生きることに
他ならないからだ。)
この大切な本は、田口ランディの心の旅を綴った旅行記だ。
そして読了した者は、自分自身の心の旅に出てしまったことに気付くのだ。
田口ランディの文章は、そのように僕たちを誘う。
あなたは、この問いに答えられるか?
「あなたは、誰ですか?」
コンセント [DVD]
市川美和子のおっぱい(特にぷっくりした乳輪と乳首のバランス)が素晴らしい。
彼女はホントにエロいカラダをしています。
ユキ(市川)が山岸(小市慢太郎)と寝た後のシーンで窓の外の風景からカメラが引いて
情事の翌朝のユキの身体が映るところが特に良い。
市川さんの個性的な顔には好き嫌いも別れるだろうが、その裸体はとにかくエロい。
このエロい身体を弄ぶ国貞教授(芥正彦)に思わず嫉妬するほどだ。
ただ、孤独死した兄(木下ほうか)が出てくるシーンがとにかく個人的にトラウマなので
再度頭から通しで観る気は起きない。
彼女はホントにエロいカラダをしています。
ユキ(市川)が山岸(小市慢太郎)と寝た後のシーンで窓の外の風景からカメラが引いて
情事の翌朝のユキの身体が映るところが特に良い。
市川さんの個性的な顔には好き嫌いも別れるだろうが、その裸体はとにかくエロい。
このエロい身体を弄ぶ国貞教授(芥正彦)に思わず嫉妬するほどだ。
ただ、孤独死した兄(木下ほうか)が出てくるシーンがとにかく個人的にトラウマなので
再度頭から通しで観る気は起きない。
コンセント [VHS]
原作を読まず、内容も期待せずに観たら、かなり面白かった。精神世界とエロスと虚構とが入り交じり味わい深い。残念なのは、少し作りが安っぽいのと、主人公の市川美和子が映画のイメージにそぐわないこと(Hシーンが多いので、脱げる女優というと限られてくるかな?)「感じやすいひと」というのに私は魅力を感じる。相手の気持ちや状態を察知しすぎてしまい、いっぱいいっぱいになってしまうひと。でも、人間が必要としているひとというのは、そういうことを「わかってくれるひと」、感じやすいひとなんだと思う。そういう人間自身はつらいと思うけれど。全てを受け入れ、何も言わず相手を癒すことができたなら…。そんなことを考えながら観た。
アンテナ スペシャル・エディション [DVD]
映画の内容そのものは、還暦過ぎのおば(あ)さんにはちょっとついて行きづらい面もありますが(当然?!)でも見て損はしない力作だと思います。加瀬亮さんの細やかな演技をTVドラマ「ありふれた奇跡」で初めて見て興味を持ち、私の日常とはかけ離れた世界らしい「アンテナ」をゲット・・・衝撃を受けました。テレビの役とは別世界のキャラクターを熱演、すごく根性のすわった俳優さんだったんだ、とファンになってます。