Emily & Her Posse Journal
Journalとは日誌のことですが、ノートに使うのが正解でしょう。
100ページ以上あるすべてのページに猫たちとエミリーのイラストが描かれています。見開きで一枚の絵ですので、切り取ると左右がつながらなくなります。
表紙はハードカバー本のように厚い紙で装丁されて丈夫そうです。航海日誌に使っても持ちそうです。
Her Posse であるクロネコ達がとってもかわいい。
100ページ以上あるすべてのページに猫たちとエミリーのイラストが描かれています。見開きで一枚の絵ですので、切り取ると左右がつながらなくなります。
表紙はハードカバー本のように厚い紙で装丁されて丈夫そうです。航海日誌に使っても持ちそうです。
Her Posse であるクロネコ達がとってもかわいい。
茂木健一郎の脳科学講義 (ちくま文庫)
脳科学は、発展する程に哲学的思索と重なってくるんだなあ〜、というのが本書を読んだ一番の感想。脳内の構造や情報伝達のしくみがいくら“科学的に”説明出来ても、「人間の意識がどこからどう生まれるのか?」という人間存在の根源的問題は一向に見えてこない。そして、この「意識」の問題が解明されない限り、真の意味で「命ある存在」を人工的に生み出すことは不可能なんだろう。
教科書の様な厳めしい書名に一瞬腰が引けそうになったが、頁を捲ってみると過去に読んだ著者のどの本よりも平易で読みやすかった。編集と執筆の両方を知る手練れの聞き手が、話のレベルを巧く一般人の目線へと引き下げてくれたおかげか。
教科書の様な厳めしい書名に一瞬腰が引けそうになったが、頁を捲ってみると過去に読んだ著者のどの本よりも平易で読みやすかった。編集と執筆の両方を知る手練れの聞き手が、話のレベルを巧く一般人の目線へと引き下げてくれたおかげか。
東宝映画「あなたへ」オリジナル・サウンドトラック
「あたなたへ」を見たときに、田中裕子が謳う「星めぐりの歌」に心が引かれて、CDを買いましたが、CDの歌だけ聴いても映画を見たときの感動は甦ってきません。やはり、映画の中で田中裕子が歌ったから良かったのだと思います。とは言え、DVDのレンタルが出たときには借りて、また見たいと思います。
DUNAMIS15 (限定版)
某メーカーの〇〇〇〇―18がインフィニティシリーズの新作として出ましたが、こっちの作品の方が新作だと思います。 流血シーンが大丈夫なインフィニティシリーズファンは、是非ともプレーしてみて下さい。
悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾
恐らく熱心な藤圭子のファンなら、この本の各部の文章がどこから引用されたものか、大概分かるだろう。(参考文献は全て文末に列挙されている。)
著者はもともと週刊誌記者であり、その文体も極めて週刊誌的、良くも悪くも事実の羅列と、合間に挿入される冷めた視線の評価である。確かに「藤圭子」という、一時代の特異な現象を俯瞰的に眺めるには、便利な本ではある。
しかし、この本をいくら読んでも、「藤圭子」という偉大な歌手の芸術性は那辺にあったのか、一向に伝わってこないのではないか。
平成六年に石坂まさをと共に藤圭子の新曲デモテープを聴いた著者は、こう書いている(p24)。「しかし、『新宿の女』や『圭子の夢は夜ひらく』に惚れ込んでいたわたしは、曲調がすっかり変っていたので、関心を示さなかった。石坂もまた、乗り気を見せなかった。/藤は、あきらめた表情で、そのデモテープをしまった。」藤圭子が長年に渡って苦しみ続けたのは、彼女の芸術的変化を決して許容しない、こうした世間の対応ではなかったのか。
だが、本書では極めて重要な指摘もなされている(p271)。「藤圭子とヒカルの音楽に断絶は無く、藤圭子の「怨歌」から『冷たい月』に陸続きで、やがて宇多田ヒカルの誕生となっていく。」
藤圭子は単なる「演歌歌手」(あるいは「怨歌歌手」)などでは決してなかった。浪曲という極めて伝統的なバックボーンを持ちながら、爛熟した昭和の「歌謡曲」に内包された様々なスタイルを見事に自己のものとして歌いきることができた、稀有な天才だった。しかし己の歌が「演歌」という狭い枠に閉じ込められようとした時、藤圭子はそれに反抗し、やがて最後年のU3の活動や、『冷たい月』『男と女』『天国』など、見事な結実が生まれつつあったのに、その成果はあまりに寥寥として少ない。藤圭子の芸術的進化は、常に俗世のいざこざに妨害され、更に時代の流れとシンクロしようとしなかった。それが彼女の悲劇ではなかったのか。
「俗世のいざこざ」を客観的に描くのも良いが、もっと熱い共感をもって、芸術的側面から藤圭子の偉大さを正当に評価する著作が出現してほしいと、切に願う。
彼女の人間的魅力については、沢木耕太郎『流星ひとつ』という素晴らしい本が出たのだから。
著者はもともと週刊誌記者であり、その文体も極めて週刊誌的、良くも悪くも事実の羅列と、合間に挿入される冷めた視線の評価である。確かに「藤圭子」という、一時代の特異な現象を俯瞰的に眺めるには、便利な本ではある。
しかし、この本をいくら読んでも、「藤圭子」という偉大な歌手の芸術性は那辺にあったのか、一向に伝わってこないのではないか。
平成六年に石坂まさをと共に藤圭子の新曲デモテープを聴いた著者は、こう書いている(p24)。「しかし、『新宿の女』や『圭子の夢は夜ひらく』に惚れ込んでいたわたしは、曲調がすっかり変っていたので、関心を示さなかった。石坂もまた、乗り気を見せなかった。/藤は、あきらめた表情で、そのデモテープをしまった。」藤圭子が長年に渡って苦しみ続けたのは、彼女の芸術的変化を決して許容しない、こうした世間の対応ではなかったのか。
だが、本書では極めて重要な指摘もなされている(p271)。「藤圭子とヒカルの音楽に断絶は無く、藤圭子の「怨歌」から『冷たい月』に陸続きで、やがて宇多田ヒカルの誕生となっていく。」
藤圭子は単なる「演歌歌手」(あるいは「怨歌歌手」)などでは決してなかった。浪曲という極めて伝統的なバックボーンを持ちながら、爛熟した昭和の「歌謡曲」に内包された様々なスタイルを見事に自己のものとして歌いきることができた、稀有な天才だった。しかし己の歌が「演歌」という狭い枠に閉じ込められようとした時、藤圭子はそれに反抗し、やがて最後年のU3の活動や、『冷たい月』『男と女』『天国』など、見事な結実が生まれつつあったのに、その成果はあまりに寥寥として少ない。藤圭子の芸術的進化は、常に俗世のいざこざに妨害され、更に時代の流れとシンクロしようとしなかった。それが彼女の悲劇ではなかったのか。
「俗世のいざこざ」を客観的に描くのも良いが、もっと熱い共感をもって、芸術的側面から藤圭子の偉大さを正当に評価する著作が出現してほしいと、切に願う。
彼女の人間的魅力については、沢木耕太郎『流星ひとつ』という素晴らしい本が出たのだから。