花腐し (講談社文庫)
2000年以降に芥川賞を取った小説を今さながら買い求め読んでいるが
その中でも心に残った作品のいくつかの一つだ
アパートの追い出しをかけに訪れた部屋で居残る住人と追い出す側の主人公・・・
ほんの半日の物語だ・・・
空っぽになったときに本当に見えるのが「心の花・・・・」
もちろん自分自身が空っぽの奥深い境地など垣間見えないだろうけど
そこまでにいく心象風景・・・
自分の一言が恋人を死なせた考える主人公・・・・
素晴らしい作品だと思います
その中でも心に残った作品のいくつかの一つだ
アパートの追い出しをかけに訪れた部屋で居残る住人と追い出す側の主人公・・・
ほんの半日の物語だ・・・
空っぽになったときに本当に見えるのが「心の花・・・・」
もちろん自分自身が空っぽの奥深い境地など垣間見えないだろうけど
そこまでにいく心象風景・・・
自分の一言が恋人を死なせた考える主人公・・・・
素晴らしい作品だと思います
川の光
この物語をファンタジーと読むか、助け合いやコミュニティーの大切さを学ぶとするか、次々に
環境を破壊する人間に反省を突きつけているととるかなど、読み取り方は読者それぞれだと思います。
3匹が事故や事件に巻き込まれるたび、ハラハラするのですが、誰かが手を差し伸べてくれるのですね。
「お話」の世界ですけど、ピシャッピシャッと周囲の人たちにシャッターをおろしているような人が
多い現代に生きていると、欠けたり失くしたりしている大切なことに気づかされる気がします。
挿絵や地図が、またかわいらしい。
3匹と仲間たち、敵のどぶねずみたちの足取りが、ほほえましく伝わってきます。
どぶねずみは悪者なんですけど、絵になると、なんだか笑っちゃいます。
環境を破壊する人間に反省を突きつけているととるかなど、読み取り方は読者それぞれだと思います。
3匹が事故や事件に巻き込まれるたび、ハラハラするのですが、誰かが手を差し伸べてくれるのですね。
「お話」の世界ですけど、ピシャッピシャッと周囲の人たちにシャッターをおろしているような人が
多い現代に生きていると、欠けたり失くしたりしている大切なことに気づかされる気がします。
挿絵や地図が、またかわいらしい。
3匹と仲間たち、敵のどぶねずみたちの足取りが、ほほえましく伝わってきます。
どぶねずみは悪者なんですけど、絵になると、なんだか笑っちゃいます。
明治の表象空間
本書には、樋口一葉「にごりえ」第五節への、時代の果てまでも掴もうとするかのような熱いアプローチとか、「怪物的なテクスト」と形容する「教育勅語」の、成立からその後の運命までも辿る精密な読解とか、トップランナー福沢諭吉、そして著者がその時代の知を代表するものと評価する中江兆民ふたりの言説分析とか、さらには彼ら以外の明治前半期思想家たちの、鋭く適切な批判的紹介とか、個別に考えても魅力的で読み応えのする文章がどっさりと仕込まれている。だが著者の野心がそうした個別研究・読解にないことは、はっきりしている。
ある書評で《本書の白眉は、樋口一葉の「にごりえ」の主人公、新たに開かれた土地(「新開」)を彷徨する「お力」の独白に、天皇が国民に一人称(「朕」)で語りかける教育勅語を対置した箇所にある。》(安藤礼二)と指摘され、別な書評では《他の誰が、気が狂いはせぬかと案ずるお力の独白が、教育勅語の一人称と相関していると気づくだろうか!》(大澤真幸)と熱いオマージュが捧げられているように、本書における著者のもくろみは、文学表現と天皇による勅語のごとく、一見して関係のないものを大胆に結びつけるところにある。だがさらに別な書評(石原千秋)で《下田歌子こそは、明治を代表する女性の保守イデオローグだった》と記されているのも見過ごせない。下田歌子という媒介項が、一葉と「教育勅語」のあいだに挟まれているのであり、全体にわたって本書における著者の作業は大胆かつ慎重である。
ところで私は本書を読みながら、「にごりえ」や「たけくらべ」を書き、24歳の若さで亡くなった一葉の生涯を想いつつ、「教育勅語」の実質的な文案作成者だった井上毅や、明六社時代の民権思想からあまりにも軽く転向して国家に寄り添った加藤弘之などの生涯を想い描いた。かたや、吉原遊郭の近くで小さな雑貨店を営んでいたこともある貧しい若い女性、そして一方は、同時代の大多数の日本人にくらべてはるかに恵まれた生涯を送ったに違いない明治のエリートたち。著者はそうしたことに言葉を費やしていないが、本書を読むものは現実に生きられた二種類の生を心に浮かべる。さらに「にごりえ」と「教育勅語」がかつてどのように受け入れられ、また今日どのように読まれたり忘れ去られていたりしているかを想像してしまう。
明治前半期という古い時代をあつかいながら、本書に脈々とした現代を感じたのは、たとえば三人の文学者(透谷、一葉、露伴)のあとに福地桜痴を分析した部分だった。これほどの著作を書き継ぎながら自己相対化の視点を失っていないと思った。というよりそうした視点を保持しているがゆえに「これほどの著作」があると言える。
ある書評者は、《羨ましいと思う。気にいったので、この本は2冊買った。》(石原千秋)と書いている。そう思う資格は私にはなさそうだが「羨ましいと思う」というのは分かる。本書をまだ購入していないのだが、手元におきたい必要を感じている。
ある書評で《本書の白眉は、樋口一葉の「にごりえ」の主人公、新たに開かれた土地(「新開」)を彷徨する「お力」の独白に、天皇が国民に一人称(「朕」)で語りかける教育勅語を対置した箇所にある。》(安藤礼二)と指摘され、別な書評では《他の誰が、気が狂いはせぬかと案ずるお力の独白が、教育勅語の一人称と相関していると気づくだろうか!》(大澤真幸)と熱いオマージュが捧げられているように、本書における著者のもくろみは、文学表現と天皇による勅語のごとく、一見して関係のないものを大胆に結びつけるところにある。だがさらに別な書評(石原千秋)で《下田歌子こそは、明治を代表する女性の保守イデオローグだった》と記されているのも見過ごせない。下田歌子という媒介項が、一葉と「教育勅語」のあいだに挟まれているのであり、全体にわたって本書における著者の作業は大胆かつ慎重である。
ところで私は本書を読みながら、「にごりえ」や「たけくらべ」を書き、24歳の若さで亡くなった一葉の生涯を想いつつ、「教育勅語」の実質的な文案作成者だった井上毅や、明六社時代の民権思想からあまりにも軽く転向して国家に寄り添った加藤弘之などの生涯を想い描いた。かたや、吉原遊郭の近くで小さな雑貨店を営んでいたこともある貧しい若い女性、そして一方は、同時代の大多数の日本人にくらべてはるかに恵まれた生涯を送ったに違いない明治のエリートたち。著者はそうしたことに言葉を費やしていないが、本書を読むものは現実に生きられた二種類の生を心に浮かべる。さらに「にごりえ」と「教育勅語」がかつてどのように受け入れられ、また今日どのように読まれたり忘れ去られていたりしているかを想像してしまう。
明治前半期という古い時代をあつかいながら、本書に脈々とした現代を感じたのは、たとえば三人の文学者(透谷、一葉、露伴)のあとに福地桜痴を分析した部分だった。これほどの著作を書き継ぎながら自己相対化の視点を失っていないと思った。というよりそうした視点を保持しているがゆえに「これほどの著作」があると言える。
ある書評者は、《羨ましいと思う。気にいったので、この本は2冊買った。》(石原千秋)と書いている。そう思う資格は私にはなさそうだが「羨ましいと思う」というのは分かる。本書をまだ購入していないのだが、手元におきたい必要を感じている。