神聖喜劇 (第1巻)
なんの予備情報もなく、「とにかくすごいらしいよ」というだけの噂を頼りに、一巻を読みました。
読み終わった後も、自分が読んだのが「何」であるのか、よく分かりません。
とにかくものすごい言葉の量でした。
作中の主人公、東堂はあらゆる書物を読破し、その一言一句を全て頭にいれいる、優れた記憶力の持ち主です。「世界は真剣に生きるに値しない」と考えた彼は、徴兵検査において同郷のよしみで見逃してくれようとした医師の情けを振り切り、兵士に志願し、軍隊に入隊します。
そこで起きる様々な理不尽に、彼は言葉のみで応戦してゆきます。怒濤のようにあふれる論理に、全ての人は閉口します。
東堂は、決して声を荒げたりはしません。
軍での数々の理不尽な規律も、よくある戦争マンガのように悲劇的には描かれず、淡々と、つい読み流してしまうような調子で描かれます。
ですから、ストーリーは、全体を通して一種の静けさが漂います。
絵柄はトーンを一切使わず、画面のすみずみまで黒々とペンで覆われて、「10年かけて漫画化した」というこの情熱と、ドラマティックな描き方の一切が押さえられたストーリーは、いっそ対称的で、それがこのマンガの「凄み」を増しています。
原作者、大西巨人は、この小説を25年かけて完成させたそうです。
私は戦争体験がないし、戦争の悲劇も悲惨さも、本当の意味では理解することはできません。ただ、大西巨人と、漫画化したのぶえのぶひさの、あふれんばかりの「鬱屈さ」は、理解できるような気がします。
このマンガは、戦争という、誰が描いたのかしれない、とてつもなく大きく理不尽な物語に巻き込まれた人物の、「あれは一体なんだったのか」という理不尽を徹底して問うているものだと思います。
そのために、膨大な書籍を読破し、引用し、言葉の限りをつくして、主人公はその理不尽さに対峙するのです。これは作者の大西が戦中言いたかったことのすべてを、「これは一体何であるのか」という世間への問いを、主人公に代弁させているのではと思います。
しかしそれは、どんなに言葉を尽くしても語り尽くせるものではなく、それがいったい「何」であるかなど、断定することはできません。多くの死者と悲劇を産み出したものが「何」であるかを説明などできないのです。しかしその「説明することのできなさ」、そして「何」であるのかを誰も知らぬままにただ抑圧されてきた者たちの鬱屈、そういったものが描かれているのではないでしょうか。
私が戦争体験がないのと同様、漫画化したのぶえのぶひさにも、戦争体験はありません。それでいて、軍生活の細部までもを絵で表現するという「無謀」に挑戦するのは、抑圧された者の語り得ぬ言葉の鬱屈さを彼も抱えていて、語りたい、言葉が欲しいという、ただ一つの情熱ではないかと思います。
戦争はたくさんの人から言葉を奪いました。そして今も、たくさんの人が自分のリアリティについて、語る術を持たず、沈黙を強いられています。
そういった人々が何かを語らんとしたとき、それはダムの決壊のような勢いを持って、言葉の放流となって私たちの前に現れます。
私たちはそれにとまどい、それが「何」であるのかを理解できません。言葉はあまりに複雑で、あまりに多すぎるからです。
そして、その言葉の放流を前にしたとき、私たちは「閉口」するのです。主人公の東堂に論破される人々のように。
そして、語っている本人ですら、もはやそれが「何」であるのかなど、分かってはいないのかもしれません。ただ、その語り得ぬ「何」かを、その「説明することのできなさ」を、他者に言葉を尽くして「説明している」のだと思います。
オマエはこれを知っているのか、知っているなら語ってみよ、説明してみよ、と迫るのです。そして誰も説明できずに、言葉を飲み込むしかないのです。
これだけの言葉を尽くしても、決して説明しえない理不尽があり、これだけの言葉を用いて25年かけても昇華されない痛みと悲しみと怒りがある。
極力まで押さえた表現からにじみ出てくるもののすごさに、私はただただ、言葉を失って、圧倒されたのでした。
神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)
軍隊の話ということで少し気が重かったんだけど、表紙がきれいなのと字が大きいことに惹かれて読んでみました。
出だしの文章が硬くって取っ付きにくい印象を受けるかもしれませんが、読んでいくとわくわくして続きを読まずにいられなくさせる小説です。主人公がピンチに陥っては切り抜けたり推理小説っぽいところがあったりして、軍隊の話というよりはエンターテイメントとして肩の力を抜いて楽しめます。
この小説の雰囲気をわかりやすく言うと、原のハードボイルドな探偵や村上春樹の小説の主人公を徴兵して軍隊に入れたらこんな感じになりそうです。主人公の格好よさもこの小説の魅力でしょう。
全5冊でまだ4冊あって毎月発売が楽しみです。
神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫)
2巻目に入った。長編を読む楽しみのひとつが、読んでいる期間中。本を閉じているときでさえ、その本で描かれた世界を思い描き、描かれた世界にともにいることだ。現実は本とともにあり、実際生きているここにはない。そういう不思議な陶酔状態を延々と続けることができる。読んでいる間だけ。
2巻目なのに、読み終わるのが惜しくなっている。意図的に読書速度を落として、この世界とともに過ごす時間が、少しでも長くしたいと考えつつある。
この小説の感想を述べてゆくことは、極めて困難だ。少なくとも現代小説には類例をみない。強いて例えるなら、昭和16年から昭和20年に起きた、軍隊生活内部での、できごとを、古文の表現手法で描き出した世界なのだろうか。
軍隊内部で行われる日常を通じて、主人公の内面は、古典から政治、文学、漢文、詩作にいたる自分自身の知的蓄積の内部を目まぐるしく文献を検索し、相手の発言や意図を予測する。
その思考の面白さと、博識さ、ついでに学べてしまう、あらゆる分野の文献の楽しみ方、そういうものをいっしょくたにして、展開してゆく。
誰も真似ができない。類似のものを書いたとしても、この筆者以外の筆力と知力では、それは必ず破綻するだろう。
そうして、この2巻目。1巻目とは趣を異にして、入営前の愛人との濃密な関係についての秘密が解き明かされてくる。主人公の頭脳の中を泳いでいるような心持ちだ。
未完結の問い
これは本文の随所でも後書きでも自省しているが、聞き手=鎌田哲哉の自慢話の書き散らしか、そうでないとしたら巨人の胸を借りて、自分の論敵をくさす本なのではないか。
かなり大西の核に肉薄しているだけに、その点があいにく汚点となっている。
おかしな時代
編集者・津野海太郎の自叙伝。といっても、1960年代から70年代の半ばまでを描いたものなのだが、じつにその時代の「ある息吹」が伝わってくる。
「ある息吹」の1つはサブカルチャーで、その発生、位置づけ、意味合いというものがよくわかる。サブカルチャーとはなにかといえば、「思想の趣味化はいやだ、趣味の思想化がいい」という小野二郎氏(晶文社創業者の1人)の言葉に表されているように思う。これは、津野氏の出版への取り組み方をも端的に示しているのではないだろうか。
語られるのは、劇団(演劇)とのかかわり、「新日本文学」編集部時代、晶文社の創業〜雑誌「ワンダーランド」(宝島)の時代。
登場人物は、花田清輝、長谷川四郎、大西巨人、杉浦康平、小野二郎、長田弘、片岡義男、小林信彦、植草甚一、高平哲郎、平野甲賀、そして演劇関係の人々。
平野甲賀氏は、津野・平野コンビといっていいほど、津野氏の仕事に関係しているデザイナーで(本書の装丁もそう)、津野氏の仕事として本書に掲載された本、ポスター、雑誌のデザインはほとんど平野氏の手によるものだ。あらためて、その見事なこと!
津野氏は、どのように企画が生まれ、それをどのように本にしていったかを、非常に正直に具体的に書いていて、モノをつくる人間にとても役立つ内容になっている。
津野氏は、当時の編集者について次のように語る。
「まったく売れないというのではこまる。でも、せっかく出版などというヤクザ稼業に足を踏み入れたからには、自分がやりたいことをやるのが先決。いくら売れるからといって、他人がやったことのまねをするようなやつはバカにされてもしかたがない。そんな暗黙の原則がごくあたりまえのこととして通用していた。」
今でもそうあるべきだと思うのだが。