日本人の〈原罪〉 (講談社現代新書)
著者は無責任な心の起源を古事記神話の「見るなの禁止」に求める.
「見るなの禁止」で特徴的なのは「見る側」は罰せられず「見られる側」に一方的なしわよせがくることだ.豊玉姫やつう(本書では取り上げていないが信太妻も)は相手に異類・異体を知られて去っていく.異類・異体を知られることは取り返しがつかないことであり,であればこその「見るな」である.人間には絶対に見ない節度が必要なのであり,それが分からない人間(カミも)であることをみずから暴露して相手を絶望させるのだ.謝れ,といわれ逃げられなくなると,かたいこと言わず「ミズに流そうよ」と責任逃れ.こういう下品なやからにはあやまる気など端からないのだから相手にするだけ無駄.都合の悪いことに目をつぶり神話的言辞を弄する「美しい国」のいかがわしさも正面から指弾されている.
最後の授業――心をみる人たちへ
この本は、NHKでも放送された2回分の通常の講義と、大講堂で行われた最終講義に、学会での特別講演を整理しなおしたものの三部から構成されている。
臨床家を目指す人たちや、精神分析に興味を持つ人向けの内容だと思う。「テレビのための精神分析入門」では臨床家としての心得がいくつか述べられているからだ。セラピストは楽屋を見せないってことや、セラピスト自身の環境も大事だということは、先輩からの重要なな助言である。
九州大学を退官するにあたっての不在の予感が全体を貫いている。そういうしめくくりの節目に際しての、北山自身の振り返りの時間、内容になっており、これからより専門的な本を読もうかという人にとっても、全体像を掴むためのガイドに適切である。
個人的には最終講義の内容が印象深く、忘れがたい。
愛着理論と精神分析
フロイトの愛娘アンナ・フロイトの直系、
言うなれば正統フロイディアン伝承者
ピーター・フォナギー。
この人のやっていることは、一言でいうと、
「なんとか精神分析を実証科学に結び付けられないか」
ということに尽きる。
本書は、臨床的な精神分析理論と実証的な愛着理論の共通点を探り出したもの。
主な精神分析の理論を総ざらいして、愛着理論との共通点と相違点を整理し、
最後に精神分析理論と愛着理論を統合させたフォナギー独自の理論である、
メンタライゼーション・モデルを提唱して、
この本は終わる。
他にもフォナギーは、愛着の世代間伝達の研究をやってみたり、
精神分析の効果であるところの「内省力の増大」
を「リフレクティブ機能尺度」で測れるようにしたりだの、
涙ぐましい努力をしている。
どんな努力だって?
精神分析が現代科学から取り残されて置いてきぼりにされないように
するための、必死の努力です。
この努力を我が国の精神分析家たちにも見習ってほしい。
まじそう思う。
そうしないと生き残れんよ、日本で精神分析は。
きみのうた
最近、amazonから来た推しメールには外れが無い感じで好みにモロ的中してるんで「あなたへのお薦め」についポチッてしまったコンピレーション・アルバムです。どっちかと言うとジャケットのセーラー服の美少女(推定)に釣られジャケ買い的な感じでクリックしてしまい、内容の方には正直言ってそれ程期待していませんでした。しかーし、これが堪らない程良いのです!シンプルでしみじみとしてしまうストレートな1970年代フォークソングの名曲揃い!!泣ける名曲(精霊流し/岬めぐり)多しです!
アラフォーですからタイトルだけ見たら多分知らないかも?と思っていた楽曲(20才のめぐりあい/夕暮れ時は淋しそう)も結構な数がありましたが、実際聞いてみたらリアルタイムでは絶対無い物迄、殆ど全部、最低でもメロディーは知っていました。冊子データと照合してみたら生まれてない時の物も多くて二度吃驚!知らず知らずの内に浸透しているんだということを実感しました。1970年代フォークは凄いです!特に斉藤和義の元祖みたいな斉藤哲夫、マジかっけー!
共視論 (講談社選書メチエ)
「共に視る」。北山修は、論文はともかく、一般書籍に自分の患者のケースをあげることを嫌い、古事記、浮世絵などから日本人の心を探る、という斬新な研究方法を試みた。この本では編者であるが、だからこそ、たくさんの「共に視る」論が読めることは大変ありがたいことである。
母と子は初め、母乳やミルクをもらうときみつめあっている。やがて、二人で「共に」きれいなお花やワンちゃんや猫ちゃんを「視て」「かわいいねー」などと情緒的につながりつつ、共視する。普通に育てられた幼児は、母と永遠に一緒にいるものだと思っている。何があってもべったりくっついて生きてゆくのだと、生きてゆくという意味も知らず、感じている。
しかし、別れの日は来る。自立である。母の手を、母の心を借りなくても世界を一人で視ることが出来るようになる。そして本当の自立で、母を愛しつつ別れてゆく。別居に限らない。同居していても「別々の人間」として歩み出す。
北山修は後年、1971年に書いた「あの素晴しい愛をもう一度」の詞に、書いた当時は気づかなかった共視論を見いだす。この唄の中で「ふたり」は決して見つめ合わない。同じものを共に視ている。そしていつまでもと誓い合ったのに、心と心が通わなくなる。それは嫌いになったのではなく、別々の人間になったのである。
まさに母子である。
「いなくなるから取り入れられる」。母は子とべったりの季節を過ぎて、初めて子供の心の中に定住する。頻繁に起きる悲しい母子の事件は、その母の母、さらにその母と子がどんな心一つの時期を過ごしたのか、過ごせなかったのか、きちんと調べなければ同じことが繰り返されるであろう。
テーブルを挟んで話すと緊張するが、カウンターに並んで話すとほぐれて話しやすい、という経験はないだろうか。これも「共視」である。大切な話をしたいときは、テーブルではなく、カウンターで話してみてはどうだろう。二人共に同じ方向を視ながら。
この本は、精神科医、日本人を看る医師・北山修入門に最も適した本のうちの一冊である。