悪人(上) (朝日文庫)
誰が一番悪い、こいつが一番悪人だって決めつめられないもどかしさに悶え苦しむミステリー。当初は、圭吾と裕一を巻き込んだ佳乃の独りよがりな三角関係演出劇と思いきや、光代が出てくる辺りから俄然、ドラマは変な方向に進んでしまう。エセ三角関係の段階では、これまた独りよがりなお坊ちゃま、西南学院大学生・圭吾の理不尽な行動に「人間としてあかんやろ」「そりゃ、ないで」と非難することができよう。彼の非常識な行動に憤慨することには、誰しもが抵抗がないはずだ。なぜ、釈放されてしまうのか、傷害罪がつくんじゃないか、裁判ではどうなるんだ?
作者は、実母の愛情が受けられなかった裕一の歪んだ性格にこの殺人事件の原因を求めているような気がしないでもない。実際最終章では、そう読める・・・・・。
被害者の両親の心情、加害者の祖母の心情、その他脇役陣の個性溢れる描き方が秀逸で、こりゃ映画化されても面白いものになりそう。
コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
著者の広井良典氏(千葉大学)は、私が注目している数少ない学者の一人だ。2009年度「大佛次郎論壇賞」を受賞したこの書物は、「新書版」とはいえ300ページ近くあり、歯応え、読み応え十分の内容である。去る1月11日、“活字文化”と全く無縁らしい産×新聞のバ×記者から「政治課題が山積しているだけに、読書を楽しむヒマはあるのか」などと失礼な嘲罵を浴びせられた鳩山総理であるが、ア×記者どもは相手にせず、「福祉(社会保障)政策と都市政策の統合」等を論じた本書に目を通されても損はないだろう。
ところで、本書の感想を一口で表すのは難しい。著者も述べるとおり、この書冊は『グローバル定常型社会』(岩波書店,09年)と対になっているからだ。むしろ、私としては「オルタナティブな社会構想」などを提起していた『持続可能な福祉社会』(ちくま新書,06年)の延長線上で当書を読み終えたのだが、先発の「持続可能な福祉社会」論では「定常(環境)志向&(相対的に)大きな政府」=「ヨーロッパ型の社会モデル」を前面に押し出しており、“コミュニティ”論は、この“社会モデル”論の陰に隠れていたような気がする。
そういった意味で、著者は当書で思索の一層の推転を見せたけれども、著者の構想する“コミュニティ像”が鮮明となった、とは言い難い。だが、たとえば福祉政策について〈時間軸〉のみならず〈空間軸〉も重視する考え方や、「公=政府(ナショナル)、共=コミュニティ(ローカル)、私=市場(グローバル)」といった認識構造などは理解できよう。本書にも登場するロバート・パットナムは「社会資本」という概念を明確に示した政治学者だが、こうした視座等もさらに活用しつつ、“コミュニティ”論を大いに深めていって欲しいと思う。
猫 (中公文庫)
夏目 漱石に内田 百間、梶井 基次郎、現代ならば町田 康や村上 春樹。
猫についての小説や文章を書いた作家は数多く、そしてそれらの作品は、
いずれもが例外なく優れた叙情性を持っている。まるで、猫について
表現することこそ、人間に言葉が与えられた理由ででもあるかのように。
なぜ物書きは猫に惹かれるのだろうか。おそらくは猫という生き物が
あの丸くて柔らかい一つの体の中にあまりにも多くの要素を秘めているからであり、
それを気まぐれに見せてはまた隠し、また見せする様子が、作家たちの筆を
誘うからなのだろうと思う。可愛さ。美しさ。生物としての脆さと強さ。
ときに赤ん坊のように幼いかと思えば、仙人のごとく達観しているように
見えることもある。獣としての荒々しさや卑しさが、人間など足元にも
及ばないような高貴さとくるくる入れ替わる。猫の持つそうした
いくつもの側面を言葉でとらえようと、作家たちは猫と全霊で向き合い、
やがて筆を取る。結果として、猫を書いた作品に傑作が並ぶことになる。
この『猫』にも、作家をはじめとする創作を生業にする人々が
それぞれのやり方で猫と付き合うことで生まれた珠玉の文章が連なっている。
微笑ましいもの、何か考えさせられるもの、いずれも適度に肩の力の抜けた、
洒脱な作品ばかりだ。確かに、猫と向き合うのに思想や信条はいらない。
猫の前では人は裸だ。それもまた、「猫もの」に傑作が多い理由かもしれない。