社長 島耕作(9) (モーニングKC)
尖閣列島の例の中国漁船体当たり事件を扱っています。
漫画で描く虚構の物語といえど、
人々の記憶に新しい国際問題を扱う以上、いい加減な憶測で嘘は書けませんよね。
船長が軍人(元?)だったということはおそらく事実なんでしょう。
その事実から素直に推理すれば、中国政府が仕掛けた、ということになりますし、
はっきりとは明言していませんが、本作はそうであるという筋立てで話を進めています。
弘兼氏は偉くなって、政界・財界にお友達もできて、そこそこに情報が入ってくるのかしらん。
それとも独自調査でもしたのかな。
しかし、そこそこの情報ってのは、怖いですよね。
真相はまったく別のところにあるかもしれませんもの。
こわごわ扱わないと、火傷するときもあると思います。
まだこんなに偉くなっていない頃の島耕作がなつかしいなぁ。
うそ社説 〜菅直人の半減期は長いのか〜
本書は311後に高まった「省エネ」精神を忠実に実践する秀逸な書である。
省エネの根幹原則である「3R」、つまり、Reduce(減らす)、Reuse(使い回す)、Recycle(再利用する)を地でいく本書に出会えたことに読者各位が感動すら覚えることだろう。
本書は1000円の書籍としてはページ数を「減らし」破格のコンパクトさであり、一切の無駄を省き、読者が本書を読むことで費やす無駄な時間を「減らす」ように工夫されており秀逸である。
本書が扱うテーマはメディアに賑わせた時事ネタであり、いわゆる「使い回し」である。著者からは新しいことが一切生み出されず、利用できるモノは使い回す精神は秀逸といえる。311以降の日本の閉塞感を笑い飛ばすべく、著名人の揚げ足をとり続ける様は合気道さながらのReuseぷりである。
プチ鹿島氏は、本書に登場する同一コンテンツを利用して、ツイッター上で励ましというエネルギーを供給し、同内容がブログに一時保管され、本書で不死鳥のごとく蘇り再度日本人に明日への活力を供給しようとしている。これこそ日本政府が目指すエネルギー政策(プルサーマル計画)に符合する秀逸な省エネぶりではなかろうか。
プチ鹿島氏はコチョコチョと脇腹をくすぐるような、「はっ」と膝をたたかせられるようなことを随所で宣うのである。本書はプチ鹿島氏が在野の賢人であることを証明する名著であり、今後も在野でこっそりと賢人ぶりを発揮することが期待される。期せずして世間がプチ鹿島氏を発見してしまい、ブレークするようなことになるのではないかと心配になるぐらいのできぶりに一抹の不安を感じざるを得ないほどである。
ただし、本書を通じて期待される経済効果が省エネであることは誠に遺憾である。
WiLL (ウィル) 2011年 11月号 [雑誌]
野田総理になって初のWILLです。今回特に強くの残ったのは中国の領海戦犯の話です。これまで密猟や密輸入など
あきらかに犯罪目的入国が多かったのでこれはこれで問題ですが一応法律を上げて取り締まることができたのですが
どうやら最近は手が巧妙化してきて政府の船だと思われる船で尖閣諸島周辺をうろついているということです。で、これの何がまずいかというと領海法の観点から数通りする船を取り締まることができないのでとりあえず声を日本の船がかけるのですが中国側は「尖閣領土は中国のものだ」と日本の船を威嚇してくるということらしいです。それもこれも仙谷氏が圧力をかけたとか地検の判断という音ですが政府にもう少し中国に意見できる力があればいいものを…このままだと尖閣諸島は危ない
あとは補正予算でどこまで復興するのか 道路などその土地でない人間も利用するわけです この本によるとへたすると50兆くらい全部引っくるめるとかかるとのことですがそんな中新たな公務員宿舎を朝霞に作るとか言い出す始末で
呆れます。ほかの宿舎を売却してここに集めるらしいですが、資産価値目減りしてるだろうし朝霞に人が集まるのか?
105兆くらいのお金が動くらしいですが その金を復興に全力を注ぐことはできないのかと
野田さん元財務大臣として復興に全力を注いでください
犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)
福島の人びとは、日本国家のエネルギー政策、そこから利益を得る人々、東京電力、東京電力からの電力によって快適な生活をする消費者、都市住民の犠牲となって、町や土地や共同体や平和な生活を破壊されてしまいました。
沖縄の人びとは、土地を戦場とされ、敗戦後も、基地と軍人にいすわられ、アメリカ政府と日本政府の利益のために、経済、生活、共同体、未来、希望などにおいて、巨大な規模の抑圧を受け続けてきました。
「「軍国主義」も「原発主義」も、莫大な国費を投入して推進された国策であり、「不敗神話」や「安全神話」をつくり上げて一切の異論を排除し、「大本営発表」によって国民を欺き続けた挙句、破綻したという点で実によく似ている。わたしの言葉で言えば、軍国主義とはすなわちヤスクニという犠牲のシステムであり、原発主義とはすなわち原発という犠牲のシステムであった。」(p.72)
著者はさらに「8・15が軍国主義とその犠牲のシステムが破綻した敗戦の日であるとすれば、3・11は原発主義とその犠牲のシステムが破綻した「第二の敗戦」の日である」(同)と述べています。
本書は、福島の人びとが今回の事故以前から事故以後にわたって日本のエネルギー政策と経済発展の犠牲とされ、沖縄の人びとが日米の軍事政策の犠牲とされてきた経緯をコンパクトにまとめています。これらの問題についての関心を持ち始めた人には適切な整理を提供してくれることでしょう。
その上で、「責任者の遁走を許さず、犠牲のシステムの延命を阻止すると同時に、国民自身もそれぞれの責任を自覚して、犠牲のシステムに頼らない新たな社会の構築をめざすこと、これである」(p.72)、「だれにも犠牲を引き受ける覚悟がなく、だれかに犠牲を押しつける権利もないとしたら、在日米軍基地についても原発についても、それを受け入れ、推進してきた国策そのものを見直すしかないのではないか」(p.216)と結んでいます。
ちなみに、本書では天罰論についての批評が展開されていますが、内村鑑三のそれについてのところなどを読んでいますと、イエスを供犠とみなすキリスト教の贖罪論が災害の被害者をもそのような文脈においてしまうことに気がつかされます。