チェーザレ 破壊の創造者(1) (KCデラックス)
世界で最も評価が高いといわれる、サチェルドーテの”CESARE BORGIA”(未邦訳)のコミカライズ。
チェーザレ・ボルジアは、学校で学ぶ世界史では名前が出るかでないかくらいマイナーですが(ゆとり教育では消えているぞ!)、毒薬カンタレラとセットで悪役のイメージがつきまとっています。
塩野七生著『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』で描かれるチェーザレは、学生時代から、司教職にありながら乗馬や剣の鍛錬を好む軍人気質の人物。
ただ、マキャベリ著『政略論』、『君主論』を読むと、学問に熱心でないという彼の評価に違和感を感じていました。
『チェーザレ・ボルジア 破壊の創造者』では、チェーザレとマキャベリが共にピサ大学の学生で、その時期から交流があったことが明らかにされています。
『世界の名著 マキャベリ』の最後に収録されているマキャベリの生涯では、若い時から交際があったことはわかりません。このこと一つとっても、今後、目から鱗が落ちるようなチェーザレ像を期待してしまいます。
当時のピサはフィレンツェの支配下にありましたが、ピサはたびたびフィレンツェに反乱を起こしていたため、マキャベリの役目はさしずめロレンツォ・デ・メディチが派遣した諜報員。
フィレンツェ共和国にとってピサは、唯一海に面している都市で、銀行業・商人であるメディチ家にとって、海路と陸路をつなぐ要衝。
ピサとメディチ家との友好関係を維持するため、4巻では、ピサ大司教リアーリオ枢機卿の屋敷へ、ジョヴァンニ・デ・メディチほかフィレンツェ団の学生が会食に招待されます。
リアーリオ枢機卿は、パッツィ事件でジョヴァンニの叔父ジュリアーノを暗殺した関係者。メディチにとって敵であるリアーリオ邸に赴くことをためらうジョヴァンニをチェーザレが取りなし、食事会が開かれます。リアーリオを取り込むことは、ボルジア枢機卿の教皇選の票につながること。メディチとリアーリオの仲を取り持ち、同時に教皇選に父が勝利するための一齣をすすめるチェーザレの政治的センスは見事としかいいようがありません。
冒頭で、12歳のルクレツィアが登場します。少年ホアン(ガンディア公)も登場します。凡庸だという通説に、サチェルドーテがどう切り込んでいるか楽しみです。
巻末に、政治学者の権威佐々木毅先生の解説が載っています。マキャベリも佐々木先生も、チェーザレが父病没後、敵対者ローヴェレ枢機卿の教皇就任に協力することで関係修復できると判断した甘さが、チェーザレ没落の最大の原因と断じていますが、サチェルドーテがどう論じているか楽しみです。
ああ、原著が読みたいがイタリア語がわからない。英語版でてるかなぁ〜
ES(1) (講談社漫画文庫 (そ3-3))
この作品は医学研究の問題点をあつかっている点でエンブリオと似ている。しかしスーパー人間をつくるのは無理で、おとぎ話でしかない。ポイントは、どこまでヒトがヒトを作り出すこと、改造すること、実験に利用することが許されるかという倫理的問題だろう。医学の進歩は、多くの犠牲の上に成り立っており、かわいそうだなどという感情論だけで片付けられるものではない。日本の731部隊、ナチスのアウシュビッツでおこなわれた人体実験は非道ではあるが、有益なデータを残している。絶対的な価値基準などないのだから、各時代、国にあった基準を決めるしかないが、日本の政治家も官僚も何も決められない。マスコミの垂れ流す偏向報道に大衆が迎合して、行き先は右へ左へ2転3転する。結局、犠牲者が現れるまで、暴走は止まらないのだろう。
戦神 ~MARS~ DVD-BOX
ヴィックとバービーはとってもぴったりだと思います。MARSの漫画本は先に持っていたので内容は知っていましたがこんなにリアルに演技ができた2人に感謝したいくらいです。まわりの登場人物もよくできていて何度も暇さえあれば繰り返し見ている状況です。このDVDは持っていてうれしくなるくらいに良くできた作品だと思いますし、ファンでなくても見てもらいたいですね。日本では味わえない、さすが台湾、華流ですね。大好きです!!
チェーザレ 破壊の創造者(7) (KCデラックス)
■聖なる理想と、清からぬ現実
序盤の「降誕祭」。
“荘厳”とはこのことであろう。
紙面・漫画という表現でありながら、“聖なる理想”が語られる教会内の
空気や集う人々の声音、ミサ曲さえもが耳に流れ込んでくるかのようだ。
まるで映画のワンシーン、否、現実にヨーロッパで行われている教会のミサを
みているようで、こちらまで清らかな気になった。
しんしんと降る雪。チェーザレやジョヴァンニの姿も、心も、このときばかりは
清く聖なるもののヴェールで覆われているせいだろうか、表情やしぐさがあたたかい。
その一方で気になるのは、乞食の親子(?)のカット。
町の片隅でぼろをまとい、寒さと飢えをすこしでもしのぐように
固くよりそいあっている。だが、子どもはついに息絶えたのだろうか・・・。
手がだらんと垂れ下がる。
が、だれもその様子を知らない。
彼らの頭上で、主をたたえる歌は響いていく。
教会の中での「聖」が体現されていく一方で、過酷で「清からぬ」現実がある。
それはチェーザレをはじめとしたすべての存在、人や世のオモテとウラをも示唆しているようだ。
「降誕祭」における一連のシーンは、その意味でも奥深い描写があり、極めて印象に残る。
■「聖なる悪魔」
“カノッサの屈辱”が、単なる叙任権闘争のみでなく、「金・財物」が
絡んでいるというのは、この事件を“政治的に”読み解けば素直にイメージできるだろう。
教皇だろうが、皇帝だろうが、どんな大義名分がひそんでいようと、
結局は“権力闘争”であり、欲望の激突だ。
ダンテであっても然り、だ。
彼自身が彼自身であるがための「生」はどこにあるのか。
“神と神の御世”の中で、ダンテという個の存在、彼自身の想いが
発揮されるためにはどうすればよかったのか。
時代と人、様々な空気が入り乱れる中で、貪欲にもがいて
生を充実させたいとする、生身の人間。
一方で崇高な理想をもとめようとする、魂・・・。
さて、グレゴリウス7世は“神”ではなく、教皇という
“神の代理人”である。
そう、あくまでも“代理人”にすぎないのである。
よって、心底“聖なるもの”にはなれない。
と、現代的な見方をしてしまえば、
面白みにかけるし、安易な結論と言われがちだが、
にしても「聖なる悪魔」とはよく表現したものだ。
「教皇派を叩き潰せ!」
ダンテから流れる、チェーザレの台詞は、さきほどの降誕祭はどこへやら、
一転して世俗的であり、おのれの感情を露にした瞬間でも
あるのだが、ここに彼のそして、ダンテの果てはグレゴリウスの
「聖なる悪魔」の姿があると思う。
「なんという混沌(カオス)いや、調和(アルモニア)か・・・」
そして、これこそが、人であり、時代であり、歴史を
表現する究極のWORDだろう。
相反するすがたの中で歴史は動く。
いくつもの思惑が絡み、複雑に、社会と時代は構築される。
理想と欲望、何が正しくて何がわるいのか・・・。
すべては、渦巻き、そしてシンプルに流れていく。
相反するものは、破壊と創造を生み出す。
それは「皇帝と教皇」のすがたでもあるのだろう。
読了して、そんなことを考えた。
私もかつて西洋史を学んでいたことがあるのだが、
やはりこの史学ジャンルをひもとき、論を立ち上げ、展開してくのは、本当に難しいと思う。
(研究者レベル、いやそれ以上にフル回転させていると拝察する)
そんななか、惣領先生のアイデアとストーリー構築力には本当に頭がさがる。
すばらしい作品なので、今後も注目していきたい。