世界の野菜を旅する (講談社現代新書)
ヨーロッパから南北アメリカ、中東、中央アジアと世界中を歩き、じっくりと観察しながら食べた野菜たちの思い出の記、だけであれば普通のエッセイだが、農園主、レストラン経営者として栽培、調理などのテクニカルな解説や、ギリシア・ローマ時代からのエピソードも交えて、野菜の来歴と魅力を、素朴かつ流れるような文章で縦横に語り尽くす。
本書を読むと知らなかったことが多い。トウモロコシやジャガイモなど新大陸から伝播した野菜については、広まり方をある程度知っていたが、キャベツやナス、サトウキビも近代化よりはるか昔から伝播が始まっているのに、原産地が分かっているのが意外。また白菜の日本移入は日清・日露戦争時、兵士が持ち帰ったという。「きっと、戦争に行っても畑の野菜ばかり見ていた農村出身の兵隊がいたのだろう」なんて、くすりとさせるユーモアも随所に盛り込まれているのも、読む愉しみが広がる。ジャガイモ飢饉の話も、著者が現地で見た石ころだらけの畑の描写から入ると、飢えという重苦しいもの悲しさをより実感させられる。その後に、飢餓で瀕死の状態でもアイルランド人が吐くあったかいジョークがなんだかいい。
歴史と食文化と農業に加え、著者の旅行記が絶妙に絡み合っていて、実に読み心地のいいエッセイだった。農や食の随筆の名手として知られる著者だが、もっと新書で書いて欲しい。ベイルートで食べたというオリーブオイルに浸した焼き茄子、私も食いたくなる。
隠居志願
一読して、なんだか泉式部の「数ふれば年の残りもなかりけり老いぬるばかり悲しきはなし」という句を想いだした・・・。著者は66歳。愛犬を弔って、「さて、次の犬を飼うか、どうか。犬のいない暮らしは考えられない、とはいっても、十六年後といえば私は八十二歳、妻は七十六歳。犬の腰が抜けても介護はできないし、それより先にこちらの腰がぬけているかもしれない。」と思う。(ミモザの埋葬)・・・
子供もいないので、「・・私たち夫婦は、あと二年したらワイナリーの経営から退いて、後事を若い後継者たちに託そうと考えている。(中略)・・が、・・(中略)・・もし十年目で うまくバトンタッチができたとしても、さらにその先がどうなるかわからない。・・(中略)・・農夫は死に、彼が耕した畑は荒れ果てた。・・(中略)・・彼の死後自然のままに延びた植物が、彼の抱いた思いや、彼が生きてきた痕跡を、静かに物語ってくれているのである。」という心境になる。(健全なる農夫)。
長野の自然の中で、四季折々の草花(挿絵つきのエッセイ:地方紙に連載された)を愛で、「病気持ち(40代の輸血が原因で肝炎が持病になってしまった・・)ながらよくここまで来たな!・・」と省みている。しかし、全体のトーンは淡々としており、味わいがあります。
著者の書いたものは処女作からずっとフォローしているので、「人間年とるとこんな心境になるんだ・・」と感慨深いものがあります。まあ今更「志願」しなくても立派な「隠居」ですヨ。まだまだ元気なので、そんなに急いで「枯れる」こともないですよ・・と言いたいですね。