煙突の見える場所 [DVD]
同じ物事も、視点が違えば、全く違った物に見える。
このテーマを様々な被写体に託し、全編に塗り込めた、漆塗りのような映画。
けっして雄弁にテーマを語るわけではないのに、見終わった後には素直にテーマが心に残っている。
「一見関係のない物を連続して映すことで、それぞれの印象の連結を操作、新たな意味を持つしーんとする。」
これをモンタージュ手法とすれば、この映画はまさにモンタージュ手法の積層だが、小難しい言葉で理解するより、「良くできた隠喩の集まり」などとした方がふさわしい気がする。
話の展開としては結構悲惨で、物語のどの段階からでも単なる悲劇につなげることが出来そうだが、見ていて笑いがあふれ、ほっとする瞬間が多いのは、小津監督のサイレント「生まれてきては見たけれど」に近い感触。
男と女の人生での役割、という視点で見ても、一貫性があり興味深い考察が得られる。
曰く、男は理屈で人生を整理しようとして身動きが取れなくなり、女は感情で回りを散らかしながら、それでも前進していく。
二つの性が、ぴったりと重なるものではなくとも、お互いに掛け替えのない物として機能している姿が、ラストシーン。
一本の煙突なのだろうと、納得した。
私の聖書物語 (中公文庫BIBLIO)
著者の椎名氏は元共産党員で、戦前は獄中にありましたが、共産主義を捨てるという転向により釈放され、後にキリスト教徒となりました。本書は椎名氏のキリスト教をめぐる信仰告白ともいえるべき書です。世間一般のイメージでは、キリスト教徒とは、全能なる神を信じ、イエス・キリストの奇蹟を信じている者かもしれません。しかしながら、椎名氏はそこに疑問を投げかけます。むしろ、奇蹟を信じられない点こそ、キリスト教にとって大切なことだと説きます。信じられなければそれで良いではないか、その姿こそまごうことのない厳然とした人間の事実であり、キリストは苦しみや悩みなどで人間性を奪われて貧弱に生きている私たちのために、人間性をとりかえそうとやってこられた方なのだからと椎名氏は言います。マリアの処女受胎、イエスの復活など様々な奇蹟を信じられずキリスト者はつまずくことがあるでしょう。けれども、本書を読むと、お仕着せの綺麗な服を着ているような、まったくつまずかない品行方正なキリスト教徒の方がむしろ何かおかしいように感じられるのです。椎名氏によれば、奇蹟は信じられないものであるということも、また信じられるものであるということも、キリストの前では同じことで生かされている一人の人間である証拠です。信じることと信じないことの葛藤を繰り返す、ここに椎名氏のユニークな思索の過程が見られます。聖書入門と言うよりも、むしろ一人のキリスト者の独白と言えるでしょう。