病牀六尺 (岩波文庫)
子規最後の日々を綴った随想。1902年9月19日没、享年34歳。
昨年暮れ以来、尊敬する人を二人亡くした。神経解剖学者の萬年甫先生、そして評論家・吉田秀和氏。萬年先生は先週、同じく尊敬するご令弟にお悔やみを申し上げたところ「もう年ですから」とのお返事であったが、偉大な知性をこの世から失うことはひとつの文化の消滅であり、大いなる社会的損失と思う。まして早世した子規にあっては、恐らくその天才の完成を待たぬ永別である。もっとも古今同様の例は無数にあり、それが世の摂理かとも思うが、偉人の死は常に惜しい。
「強健な精神が病弱な身体に囚われたとき」(解説p.189)、人は何を思い、目前に迫った死に如何に処するか。本書は、衰弱の一途にあっても猶旺盛な好奇心を保ち続けた一個の知識人を描くが、同時にまた病苦に苛まれ喘ぐ姿をも隠してはいない。明と暗との交錯。しかし死の恐怖は見えず、そこにかえって苦悶の大きさが偲ばれる。新聞に連載されたという文体は平明な名文で、現代人も何ら支障なく読める。
以下は現代からみた感想であり本作品を傷つける意図は毛頭ない。
すなわち、知識人も万能ではない、ということである。メディアで専門外の意見を得々と語るいわゆる「文化人」のおぞましさ。学習塾を廃止すべきと主張したノーベル賞学者の思慮のなさに、失笑を通り越して怒りを覚えたこともある。子規の論も同様に、素人の浅慮をしばしば免れ得ていない。また銃猟を認容する子規の「残酷」についての弁明は(p.9~, p.53~)、狩られる側の痛みに配慮しない、罪悪感のすり替えに過ぎない(昨今の「地球に優しい」という環境破壊の免罪符も、要は「やや手加減して殴る」ということでしかないのだ)。女性の学問(p.106~)についても得手勝手な論理である。専門家は専門以外には謙虚であるべきで、すべて知識人は厳しく自戒すべきであると改めて思った。
仰臥漫録 (岩波文庫)
あんなに四国の松山で元気な様子を見せ楽しそうな二人。その親友が病気で別れていかなければならない二人の運命。この日記はそんな子規の運命を悲しくも
あり我が身にふとオーバーラップして考えるそんな書籍です。
日記体の俳句集の形で孤独ななかにあえぐ子規の苦悩が強く伝播してくる悲しい本なのです。これが脊椎カリエスの病魔に取りつかれ当時の医学では解けることのない絶体絶命のしんどさを感じます。
死に対し真正面から向き合い食することが楽しみであり憩いの時それは「食う=生」の証であることをまざまざと見せつけられます。強い意志と文学への執着に強いデーモンを読み取ることができます。
それは、半狂乱で食にこだわり続け例えば現在の賃貸の一か月分の部屋代と同じ位一カ月マグロ、カツオ、サバなどの刺身を食べたことがこの日記中に存在することでも理解できます。
「生」への執念は「文学と食」によって余命を伸ばし36歳の命を散らすのです。
参考に「漱石の思い出」夏目鏡子の冒頭部分あたりを読まれるといいですね。
正岡子規
俳句と和歌の革新者である子規を論じた書物は、その大半が熱烈な賛辞と圧倒的な高評価で埋め尽くされているのが通例だが、最近本邦に帰化して新・日本人となられたキーン翁のこのたびの評伝は、けっして贔屓の引き倒しの悪弊に陥らず、非常に冷静な語り口で終始していて、例えば子規に師事しながら「その人格冷血」などと指弾した若尾瀾水の悪口を紹介しているところなどが、かえって新鮮だ。
しかし脊椎カリエスのためにかのモーツアルトと同じく弱冠三五歳にして泉下の人となったこの偉大な文学者は、「詩歌」と「俳句」と「短歌」という日本語を創成しただけでなく、翁が結論付けておられるようにわが国の短詩形文学の「本質を変えた」のだった。今日私たちが「俳句や短歌で現代の世界に生きる経験を語る」ことができるのは、ひとえにこの早世した天才のおかげなのである。
古今集や新古今、芭蕉をおとしめた功罪は相半ばするとはいえ、万葉集を再評価し、実朝、蕪村を「発見」した功績は、子規の実作がそれらの影響を殆んど受けていないとはいえ、他の誰もがなしえなかった日本文学史への貢献であった。
また子規が童貞ではなかったこと、漱石と共に大学予備門で学んでいた当時の英語の実力を侮るべきではないこと、彼が生涯で九〇篇の個性的な新体詩を作ったこと、西洋音楽のレコードを蓄音機で聴いた子規が、(みずからヴァイオリンを弾き、ワーグナーを愛した彼より一九歳若い石川啄木には及ばないとしても)、想像力を駆使して三つの歌を創作したなど、博学のキーン翁ならではのエピソードも鏤められていて読み応えがある。