金毘羅 (河出文庫)
~壱で引き込まれ、弐でどうなることかと思わせられ、参であらぬところを引きずり回され、四で怒濤のように押し寄せる言葉と感情の奔流に完全にやられてしまい、劇的回心、とも言うべき金比羅としての自己発見のシーンに泣いた。そして最後の一文読了して茫然自失。(『レストレス・ドリーム』のラストシーンを、思わず読み返してしまった)
これまで10年以上笙~~野さんの作品を読み続けてきて、何かデビュー以来の積み重ねに対するひとつのクライマックス、でもあるような、最後の畳み掛けにはそんな勢いと歓喜を感じた。
私小説、SF、スラップスティック、エッセイ、論争、フェミニズム、シューキョーと宗教、その他もろもろを習合してついにここまでたどり着いた純文学作家の境地、これがひとつの到達点、と言われるの~~もうなずける。そしてもちろん通過点なのだと思うと怖い。~
愛別外猫雑記 (河出文庫)
−私は決して猫が好きなのではない。猫を飼うのも下手だ。
ただ、友達になった相手がたまたま猫だった。
その友を出来れば裏切りたくなかったのだ。−
冒頭に出てくる文章のとおり、著者は猫をペットとしては見ていない。
マンションのゴミ置き場で死にそうな風情の子猫を見かけ、
子猫は苦手で触り方もわからないのに、保護するために
手製の道具を用意する。対人恐怖とうつ状態にありながら、
猫と接する態度は非常に真摯で、そのために猫嫌いの人からは
格好の標的として嫌がらせをされる。
「野良猫は自由気まま」という考えを一蹴し、
「猫を一掃するために」毒を撒かれる危険や、
ゴミの中のタマネギやビニール袋、吸殻など、
猫が口にしたら危険なものに思いを巡らせる。
子猫の里親面接では、猫の安全と平和に気を配るあまり
チェックが厳しすぎて誰も残らない。
喜劇、ではない。
無責任な飼い主が放置する猫たちが、
日々どれだけの危険にさらされているか考えさせられる。
内容は笑えないが、保護された猫たちが身奇麗に美しく成長し、
くつろいだ表情をみせている写真の数々に
著者の猫への接し方が伺えて、猫たちの幸せが嬉しくなる。
「猫を飼うのが下手」というのは、人間の都合にあわせて
要領よく猫を飼うのが下手だという意味かと思った。
猫たちは、どれも自由に幸せそうに写っていた。
金毘羅
一頁目から唸ってしまった。“一九五六年三月十六日深夜ひとりの赤ん坊が生まれてすぐ死にました。その死体に私は宿りました”……この手があったのか!
つまり主人公は金毘羅。女の肉体を仮の宿としている、性別のない魂なのだ。かつてミシェル・ウエルベックは「素粒子」において、モテない男の怨念を描き、最終的に、地球が性別も肉体もない生命体で満たされる未来を夢想した。しかし「金毘羅」においては、初めから主人公は性別も肉体も持たず、時に窮屈な仮の肉体に支配されながら生きる。ジェンダーの問題に取り組んできた笙野氏の、過激な設定に驚く。「女も男になれる」なんて偽善的な建前の男社会バカバカしーい。だってもとから男でも女でもないんだもーん、てわけ。
そして小説は、太宰・三島ばりの私語りのスタイルで進むかに見えて、決してそうはならない。幼少期の世界との違和というここちよい物語に浸ろうとするたび、高笑いする金毘羅に遮られ、関節をはずされる。金毘羅は人間を嘲笑して曰く“文学の世界で語るべき事が何もないと言ってる人間は、新しく語るべき現実から目を背けているだけ”“「私などない」と言ってる人間は自分だけが絶対者で特別だと思っているからそういう抜けた事をいうのだ”“大量死で文学が無効になったという人間も爆撃テロで文学が無意味になったという人間も自分は死んでいません”。これは、精神を失った肉体の物語が横行する小説界への反逆なのだ。
デビュー後十年間の不遇時代を経て、その後十二年間“奇跡”的に小説を書き続けた主人公の戦いを、神々のたとえで描く後半はとてもスリリングだ。苦悩の果てに主人公は叫ぶ。“金毘羅だ! 私は金毘羅になった!”この金毘羅一代記は著者最大の力作だが、これが到達点なのではなく、新しい笙野文学が誕生したのだと思いたい。
徹底抗戦!文士の森
規制御礼、弾圧上等、通報有利、闘争貫徹、
ドンキホーテの返信爆弾、某よ、お前はもう死んでいる!
漫画界にも通報よ!この人と語りたい、キャラクターだけ評論家の作り方、潰し方、「利権や討伐」としての罵倒芸術、早稲田文学で連投よ(ハート)
とか。
サブカルチャー評論家などに、文学は死んだとかいわれて反撃しているようです。
個人攻撃したわけではないので、反撃されたほうも「?」な感じかもしれないが、
ネタとして使うだけで、直接対談などはしないと言い張っている。プロレス仲間として対立構図をつくってしまい、自分の宣伝に使う、とかかいてある。
論争芸術として芸のあるところをみせると、文学は死んでいないことになるのか。。
「純文学って売れてないし、意味ないじゃん」と大声でいう人がいると、文学に興味を持つ人が減ってしまうのか。そう思った人を引き戻せるような面白さなのかどうか、よくわからない。
たとえば明治政府ちゃんというのは、近代国家の文脈でしか文学を読もうとしない人たちを指すらしい。
反撃してもしなくても、笙野氏などのつくっている文学作品に変わりはない。批判したり、それに反撃したから質が上がったり下がったりするわけではない。それでも、
「文学は売れない」ということがこういう物議をかもすということは、そういわれるとイメージで売れなくなったりするというで、
文学というのはあやうい地位にある微妙なものなんだと思った。
笙野頼子三冠小説集 (河出文庫)
笙野頼子は、ぶっちぎりのエンターテイメントとして読んでます。
物語を読む量が閾値を超えると、デジャブ感覚におそわれることがあります。
『ブレードランナー』を観ていて、あぁ『野良犬』だなとかね。
実際に引用が行われたか否かより、デジャブ感覚というなにか、頭に刺さったとげのようなモノを抜きたいのです。
物語が好きでたくさん読んだのに、カンタンに楽しめないという悔しさ。
『二百回忌』では、”死んだ身内もゆかりの人も皆蘇ってきて、法事に”でます。
『二百回忌』は、言葉のアヤではないのです。
”ヨソノ家デハ誰モ蘇ッテ来ン”と母は言い、両親がこのことを恥と思っていない様子から、蘇りは、不思議なことではあるけれど、それぞれの家にある独特なしきたりに似た、いとなみであることが、腑に落ちます。
おもしろい映画のはじまりに感じる予感があります。すべては見通せない、でも共感、リズムがいい、といった言葉が渾然となった、どこかうれしいアナログ的感覚です。ワクワク。
もちろん、笙野さんの小説には、それがあるといいたい。
この本のタイトルは『笙野頼子三冠小説集』とあり群像野間三島芥川泉伊藤で、計六冠。
自分くらいの本読み(なぜかえばってる)が好きな作家でも、どこかエンタメのニオイがすると、かしこい系の賞を取れないことは、ママあるなかで、うれしいし、おもしろさのお墨付きという、外部からの証明は、本屋さんにおいてもらいやすいので、なによりです。
ヨイトコロまだまだあり。映像的だし。SFもかけるし。ドメスティック(日本、その村や村社会)でありながら、ユビキタス(偏在、普遍、、、妖精の目で妖精を見る)的な新しい神話とも思えるし。
なんというか、大好きですね。
蛇足ですが、
言っている文章はわかるのだけれど、何を語りたいのかわからない、という人もいると思います。それは、書いてあるフェミや私小説家やそのほかのテクニカルタームを正式な意味でとらえようとして、作家の言い方や言い草に気が回っていないのです。
蛇足の二つ目ですが、彼女の作品で『金毘羅』があります。
実際の金毘羅は、クンピーラ、インドの神様でガンジス川のワニ。ヒンズー教。このワニが、仏教に取り込まれて帝釈天となるのですがなぜか、昔の名前、コンピラで出ています。また、廃仏毀釈の荒波で、お寺から神社に宗旨替えするというウルトラCを決めたこともあります。恨みの人、崇徳天皇が眠っているので、明治天皇も即位してから真っ先に訪れたとも、聞いています。また、山の上につくられた宗教施設なのに、海運の神様です。そして、、、
ホントにまだまだフシギはあるのですが、
コーユー知識と作品とは、まったく関係してません。
ただ、日本というわけのわからなさ、家というわからなさ、こんぴらというわからなさ、といったわからさと、通底はしているのかもしれません。
そして、このわからなさの正体は、依り代、だなと予測してます。